のあるコンテンツは、島根県立古代出雲歴史博物館の展示または館内施設に関するコンテンツです。
『一畑口駅』周辺は小境地区といい、昔は「小酒井」と書いていたと伝えられる。最初の目的地は、小境とお酒にまつわる「佐香(さか)神社(松尾神社)」。 その後、薬師様として知られる「一畑薬師」へ。門前町では、地元の人たちのさり気ない心遣いに触れる。ここでしか、そのときでしか味わえない……
江戸時代から明治初期にかけて木綿市場を中心に栄えた平田の街。『雲州平田駅』からおよそ10分。「木綿街道」は当時の姿をいまに残す。 立ち並ぶ老舗は、そのほとんどが創業100年を超える。建物だけでなくその心意気も代々受け継いでいる。お酒、醤油、生姜糖など、伝統の味を堪能しながら、伝……
『川跡(かわと)駅』で大社方面へ向かう僕たちは、電車を乗り換える。旅はいよいよ後半。 終点の一つ手前『浜山公園北口駅』からはふたりが別行動。ゆかりさんは「島根ワイナリー」へ向かう。出雲のお土産がほとんど揃うここで、再発見をしたいということだ。 いっぽう僕は、移築された豪農屋敷……
終点『出雲大社前駅』に到着。これまでご一緒いただいたゆかりさんとはここでお別れ。ここからは、地元出雲市を拠点に活動しているグラフィックデザイナーの石川さんに案内していただく。彼は建造物のファンでもあり、古代から現代までの芸術的な建造物についての知識は豊富である。「あまり知られてい……
国道9号線を行くこと、約半時間。市街地を抜けてレンタカーでの快適なドライブは続く。少し早めの休憩を。日本海が見えた頃、たどり着いたのはいちじくの街にある道の駅「キララ多伎(たき)」。海岸のカフェ。軽くおなかを満たしながら、一緒に出雲の時間を味わう。
日御碕(ひのみさき)へと出発してすぐに思ったことは、「運転とガイドをお願いしてよかった!」稲佐の浜から日御碕灯台までを結び、ほとんどを海に接する日御碕街道は、急なカーブの連続と勾配のきつい坂道が続く。そこには古代神話の面影が残されていたり、刻々と変化する厳しくも美しい自然の風景が……
日御碕(ひのみさき)街道も終わりに差しかかる頃、突如あらわれる朱塗りの日御碕神社。家並みや漁港の側に建てられ、地元の人びとにとても大切にされている。日御碕漁港に浮かぶ「経島(ふみしま)」は、以前「神の住む島」であり、今は「ウミネコの住む島」になっている。「和布刈神事(めかりしんじ……
日御碕(ひのみさき)では新鮮な海産物も名物のひとつ。名物の代表選手、日御碕灯台の近くでは、その海産物を新鮮なまま、あるいはあれこれ加工した物が売られている。その場でぱくりと食べるのも楽しいけど、美味しい記憶を一緒に連れて帰るのも悪くない。旅が終わったあとも、美味しさと一緒に楽しか……
出雲大社から西へおよそ900メートルの稲佐の浜。全国から集う八百万の神々を迎える『神迎祭』(かみむかえさい)が行われる。ここは、国譲りの儀が行なわれたと伝えられる地でもある。かがり火の中で行なわれるこのお祭りには多くの人たちも集まる。人びとはその神事の一部始終を見守る。
神迎祭(かみむかえさい)の翌日、朝からにぎわう出雲大社。「神在祭(かみありさい)」が執り行なわれる。本殿へは信者のほかに一般でも入ることができ、神々の到着を歓迎する。
神々が出雲にやってきて7日。その目的は会議とも法事とも伝えられる。行事を終えた神々は出雲大社を発つ。『神等去出祭』はその神々を見送るお祭りである。さらにその7日後、『第二神等去出祭』により出雲を旅立つ。その無事を願う人びとに見送られながら。
古代出雲歴史博物館がオープンした。さて、どんなところなのか、ちょいと出かけて見ようじゃないかと来てみたら、大きな庭園にびっくりした。建物は重厚な感じで横たわり、後方の緑なす山々が印象的である。展示は、もう古代出雲がワアーッと押し寄せる波のような感じで、1日ではとても見終われない。……
まるで他の星からやってきたような不思議な形をした銅鐸は、神の鐘とも呼びうる弥生時代の青銅器。その魅力を知りたくて、全国最多の銅鐸が出土した雲南(うんなん)市の加茂(かも)岩倉遺跡を訪ねた。そこは、人工物を拒むようなひっそりとした山奥の遺跡。銅鐸の謎、古代人の祈りの心に出会うにふさ……
斐川町の荒神谷(こうじんだに)遺跡は、358本もの銅剣が発見された遺跡。名前はこわそうだけど、実は、おおらかな自然に包まれた癒しの谷。学芸員さんと語りあううちに、想像力も広がっていった。史実や定説も大切だけど感じる心も大切。ここに立つと古代人の・・・いえ、私たちの先祖の生きてきた……
JR出雲市駅から少し歩くと、注がれた陽射しに細めた目にセピア色の町並みが映る。老舗の和菓子屋にさりげなく飾られた一輪挿しが、そこはかとない郷愁を誘う。 江戸の時代から続く老舗中の老舗「献上そば 羽根屋本店」伝統の技と味との出会いに胸が膨らむ。
大正の頃まではこのような感じでした。俥(くるま)もここにとめられていました。
大正年間の境内整備までは、参道の両側には田が広がっていました。
鳥居向かって右側の柱に彫ってある文字をよく見ると、出雲大社(杵築大社)の祭神はスサノヲと記されています。実は、中世においては出雲大社の主祭神はスサノヲで、その名残がここに残っているのです。
この石囲みの場所で、かつて様々な芸能が行われていたのです。
素鵞社は地元では「素鵞さん」と親しまれ、スサノヲが祀られています。地元の人は拝礼後、後ろにまわり、社に肩をあてると肩こりがなおると伝承しています。
庁舎の裏に回ってみよう。大きな突起があります。ここは階段室で、明かり取りの役目を果たしています。この建物の特徴的な部分です。また、トイレが別棟にあるが、これは建て増したのではなく、菊竹さんが一体として設計したもの。なお、コンクリに注目すると、ナットにも神紋が刻まれています。
組物には「二重亀甲に剣花菱」の神紋が浮き彫りになっており、欄間には龍、背面には鯉が彫られ、桃山風の彫刻の面影を残しています。
島根の名水百選に選ばれています。11月23日の出雲大社の古伝新嘗祭の「歯固めの神事」(国造が小石を噛む神事)では、この井戸の小石を用いることになっています。
出雲市大津町。この地は「出雲の王家の谷」とも呼ばれる魅惑の場所である。小さな谷をぐるりと取り囲み、所狭しと27基以上もの弥生から古墳時代の墳墓群が連なるさまは異様であり、王家の谷と呼ばれるゆえんだと感じる。そこに不思議な形の墳墓が6基も存在する。それは、四隅突出型墳丘墓。方形墳丘……
神々の到来の地といわれる「稲佐の浜」から浜伝いにそぞろ歩く。路地裏探訪としゃれ込んで迷い込んだ小路の先に「いづもそば」と書かれた汐風になびく暖簾が目に入る。 昭和の、人々の願いを看板にした創業者の心根(こころね)が訪れるものの心を癒す。
謎多き遺跡めぐりで、おなかはペコペコに。斐川(ひかわ)町限定のカレーがあると聞き、道の駅「湯の川」に立ち寄った。そこで出会ったのは、ここでしか栽培できない不思議な生姜入りのカレーと素朴なお皿。カレーを堪能した後、お皿を手掛ける「出西窯」で、真摯に器作りに向き合う職人さんたちに出会……
斐川(ひかわ)町には、自然の素材に命を吹き込む職人さんや作家さんが工房や美術館を構えている。風土に根ざして生まれた物や作品には、その地の良さが見えてくる。そこで、木工芸品を手がける「工房おかや木芸」さんと、和のキルト作家八幡垣(やわたがき)睦子さんの作品を展示した「出雲キルト美術……
旅のしめくくりは、古代の衣食住体験。神代のころから湧き出ていたといわれる斐川町の湯の川温泉を訪ねた。目指すは温泉旅館「松園(しょうえん)」さん。竪穴式住居で、海幸、川幸、山幸、田の幸が並ぶ古代食と荒神鍋に舌鼓。箸が進むほどに宴は盛り上がり、旅仲間も旅館のご主人もかけがえのない友と……
縁結びで知られる出雲市大社町の出雲大社。 正門前から大鳥居(おおとりい)に向かって伸びる「神門(しんもん)通り」の坂道で、ピタリと足がとまった。 そこは「日本ぜんざい学会壱号店」という名のぜんざい屋さん。 懐かしい町家風情と看板に記された「ぜんざい発祥の地出雲」の文字に心の……
うず煮は、寒さ厳しい旧暦元旦、 福縁を授ける出雲大社の「福神祭」などで、 祭りを手伝う人たちにふるまわれる料理。 出雲大社の出雲国造(こくそう)家に代々伝わるおもてなしの味だ。 近年、町内の旅館や飲食店でもいただけるようになったと聞き、 さっそく、出雲市大社町の料亭を訪……
古代出雲歴史博物館のショップで、おちょぼ口には嬉しい一口サイズのお饅頭(まんじゅう)を発見。その名は「古代米和菓子 黒米・赤米饅頭」。モチモチとした皮は古代米(といわれる赤米・黒米)が原材料で、ほんのり桜色と紫色。小豆の漉(つぶ)し餡(あん)と白餡のナチュラルな甘味にほっと和む……
出雲大社の門前町・出雲市大社町。町を代表するお使い物は?と地元の人に問えば、よく耳にするのは「高田屋さんの羊羹(ようかん)」の声。理由は贈っても贈られても嬉しい逸品だから、と。 地元でお墨付きの高田屋は創業180余年の老舗菓舗。一筋に追及された伝統の味は、数え切れないほどの人……
鶴亀、松竹梅など縁起物をかたどったかまぼこ「祝いかまぼこ」は、島根県東部の出雲地方の結婚式の引き出物の代表格。出雲大社のお膝元出雲市大社町も祝いかまぼこ作りが盛んな町だ。寿ぎの味は祝福の証にお裾分けされてきた。優美な細工を施す職人技を訪ねて、町一番の老舗かまぼこ屋の暖簾をくぐっ……
縁結びを祈願して訪ねた出雲市大社町の出雲大社。参拝後に立ち寄った甘味処ですっかり餅に恋してしまった。きっかけはきな粉と黒蜜仕立ての一皿の串団子から。もちもちとした食感に魅かれ、とうとう餅メニューを全制覇。出雲地方の正月気分も味わった。縁結び祈願にあわせて餅肌のスイーツに会ってみ……
出雲大社にお参りした後は、出雲そばに舌鼓を打ち、この地が発祥とされる“ぜんざい”で満腹になるのが定番コース。でも地元の人達はどうしているのだろうか?毎日そばってことはないだろう。 調べてみると、あるわあるわ地元の味。名付けて「大社飯」の面白さを探ってみる
出雲神話の人気者、スサノオノミコトを主祭神に、その奥方クシナダヒメ、さらに奥方の両親、アシナヅチとテナヅチを祀る、出雲市佐田町にある「須佐神社」。そんな著名な神々が鎮座ましまする須佐神社が、近年、パワースポットと謳われて女性を中心に大人気。しかしそこには、悲しき「木」の物語があっ……
旧JR大社駅の真ん前にある「手打ちそば本家大梶」は、地元の人々に愛される出雲そばの店である。この大社駅が1912年(明治45年)に開業したころに創業したらしい。しかし、当初は大梶旅館としてのスタートだった。出雲そば屋となるのは昭和28年である。
出雲そばのお店にもそば以外のメニューはある。多くの観光客が見向きもしないそれらのメニューだが、実は地元の人達にはよく知られていた。 そばの出汁を使う様々なメニューは地元で働く人達のお腹と心を満腹にしている。その代表格である丼ものに注目してみた。
歴史博物館の正面にある「ビジネスホテル大社」。実はこここそ、「出雲そばだけじゃない」を実践するお店だった。宿泊もでき尚かつランチもやっているというこちらは、出雲そばをはじめ様々なメニューがある中、お勧めは “幕の内弁当”と“カツカレー”だと聞いた。
日本海が一望できる日御碕灯台へと足を向ける。道すがら、ちょっと小腹が空いたのだけれど、コンビニなど一切見当たらない。とりあえず売店には何かあるだろうと向かうその先にあったのは、シンプルながらもガッツリ食べ応えのある“御碕のファストフード”だった。
昭和40年ごろ通りにぎっしり詰まった人波に押されて進むしかなかった土曜夜市。そのにぎわいの中心地だった出雲サンロード中町の、今では静かな通りにポッカリと空いた中町公園に面してnaka蔵はある。店主の昌子(しょうじ)さんも、あの土曜夜市の体験者、きっと大人の背中ばかりを見上げて歩……
出雲縁結び空港に客人を迎え「まずは出雲大社へ」と車を走らす。客人は十中八九「いずもそば」を御所望なさる。お口に合わぬ物を提供しては「出雲路」の始まりからつまずくこと必至ゆえ、客人が「出雲そば」への傾倒を如何ほどお持ちか気になるところ。幾度か経験値を積み重ねるうち巡り会ったのが此……
「出雲大社のお土産は?」と地元の人に尋ねると、ほぼ真っ先に帰ってくるのが「俵まんぢう」だ。「まんじゅう」ではなく“まんぢう”というところが、何か歴史的なものを感じさせる。その由来は「大国様が俵の上にいらっしゃるから」らしい。大国様の笑顔と大きな俵は見るだけでも気持ちを幸せにして……
神門通りを出雲大社に向かって歩く。境内の手前に差し掛かると急な上り坂が待ち構えている。そのままお参りに向かうのもいいが、少し脇道に逸れてみる。団子屋さんの角を右に、東へ向かうと直ぐに見えたのが『やくも寿し』。大社さんのお膝元、お寿し屋さんのご主人には素敵な物語があった。
韓竈神社これを「からかまじんじゃ」と呼ぶ。風力発電機のプロペラの立ち並ぶ島根半島の河下(かわしも)から出雲神仏霊場の2番札所「鰐淵寺(がくえんじ)」に向かう途中で右手(西方)に折れて唐川川をさかのぼっていくと、途中から舗装もなくなり、やがて韓竈神社の鳥居にたどりつく。ここで車をお……
平成23年、古代出雲歴史博物館開館5周年へ向けてひとつのプロジェクトがこっそりと、ほんとうにこっそりと進行していた。それは博物館の目玉のひとつ「神話シアター」の新コンテンツの作成である!これから新規コンテンツ作成までの苦難?の道のりをネタバレにならない程度に紹介していこう。
どうも、コボレです。仕事の傍らで、古代出雲歴史博物館のメルマガをせっせと作成しています。 今回、特別プレゼンターとして、こちらの記事を作成してみました。
年も押し迫った師走某日、我々はついに撮影初日を迎えることとなった。
はじまり、はじまり。 ある冬の日。 雲太くんと出雲ちゃんは、古代出雲歴史博物館にやって来ました。 (雲太)出雲ちゃん、今日は、博物館を探検しよう! (出雲)いいわよ、雲太くん!とっても楽しみっ。 こうして、中央ロビーへと入っていきました。 ロビーに明るい声が響くと……
出雲市の塩冶(えんや)小学校の近く、今は住宅地となっているが、昔この周りは田んぼだったところだから、こんもりとした防風林があって、その内側に大きなクスの木を傘にした白壁の大きな蔵がある。そんなところに隠れ家のような「蔵カフェおもひで屋」はあって、1階はカフェ。2階はアトリエ兼ギ……
出雲縁結び空港から車で3分は確かに出雲路の玄関。キャッチコピーの「お帰りなさいふる里へ」はその交通の便からと思いきや、二百余年の歴史を持つ古屋敷のたたずまいはまさに「ふる里」の感あり。落ち着いた店内も旅の疲れを癒(いや)すこと請け合いの懐古情緒満点。敷地内には製麺所、土産物、そ……
「これはね、“かまぼこ”なんだよ」 目の前のスナック菓子をボリボリと食べながら、別所蒲鉾の竹並一人社長は話す。「出てくる形が違うだけでね、原料はかまぼこと同じだからね。そうだろ?」低い声に人懐っこい笑顔がアンバランスな竹並社長。大社海岸に近い場所に2つの工場を持つ別所蒲鉾の3……
「出雲そばに飽きたらどうぞ」 大鳥居に程近い「大正庵」では10年前から“出雲そば炒め”をメニューとして出している。その名の通り、出雲そばを炒めたモノ。一般的な焼きそば風ではなく、汁気の多いのが特徴だ。 自前の手打ちそばをさっと茹で、冷水でしっかり締める。具はシメジとエノキ……
さて、筆者の怠慢により?!某漫画の連載のように間があいてしまったが、新規シアターコンテンツの制作秘話第三章である。
さて、不定期連載でお送りしている制作秘話第四章である。
いよいよ、新規シアターコンテンツ製作秘話も最終章を迎えることとなった。今回は、若干のネタバレも含むが、この映像の核ともいえるCGを担当していただいた「ナナイロ」さんに秘話を語ってもらうことにしよう。 ---
大国主神には数多くの彼女がいた。というと、「えっまさか?」という人と「そうそう。」という人に大別される。今回は結構本命の彼女の話である。出雲市斐川町に御井神社という井戸を祀る神社がある。その井戸に湧く水は、大国主神の子どもの産湯となったものと伝えられ、安産の社として知られている。
出雲市平田町の口宇賀(くちうか)の地は、平田の町から日本海へ出る途中にある。バス停の口宇賀から500メートルほど歩くと人家と接して田んぼの中に宇賀神社がある。道が分からない場合は、土地の人に聞くのが一番だろう。
古事記に登場する大国主命の彼女たち、カムヤタテヒメ(コトシロヌシを産む)、ヌナカワヒメ(タケミナカタを産むと伝える)、ヤカミヒメ(キノマタノカミを産む)、他にもタキリビメ(宗像三女神の一)もいるのだが、正妻はスサノオノミコトの娘であるスセリビメ。
その所行に怒った天照大御神によって、高天原から出雲に追いやられたスサノヲ。肥の河の岸辺に佇んでいると何かが上流から流れてくるのが目に入った。掬い上げるとそれは箸だった。スサノヲは上流に人が住んでいると感じ、肥の河沿いに奥へと登っていく。
「大きなふくろをかたにかけ〜♪」でおなじみのだいこく様。大俵の上にどっしりと、大きな袋を担いでニンマリと笑っている。その笑顔には誰もがほっこりした気持ちになるのでは? だいこく様の右手には、“小槌”が握られており「振ると欲しい物が何でも出てくる」という言い伝え。そんな嬉しい神……
古代出雲歴史博物館では、2013年3月10日開館6周年を迎えた「開館記念無料デー」新たな体験イベントとしてカルメ焼きをレパートリーに加えた。この写真はその日の様子です。
島根半島の山中に地元では「たていわさん」と呼ばれる巨大な石を祀る神社があるというので行ってみた。場所は出雲市平田町で有名なお寺、一畑薬師の後方の山中、字名は庄部という所らしい。一畑電鉄の園駅から松江方面へ400メートルほどのところから左の山中へ向かい、道なりに6キロほど行くと、左……
お店の中はアリのオブジェが点々としている。実物の蟻はセカセカしているが、こちらのアリは何となくのんびりとしている。店主の松谷ちどりさんとお話ししていると、その理由が理解できる。「ゆったり、マイペースな感じでやってます。お気軽にお立ち寄りいだければと思います」とちどりさん。ここ『ア……
今回訪れたのは、オオクニヌシノカミの祖父母が祀られているとされる長浜神社。主祭神は『出雲国風土記』の冒頭で、「国来国来(くにこ、くにこ)」と出雲の国を国引きして大きくした八束水臣津野命(ヤツカミヅオミツヌノミコト)。国引きした綱の跡と云われる園の長浜の一角にこの長浜神社はある。
出雲大社前の勢溜(せいだまり)に響く「いらっしゃいませー!出雲名物ぜんざいとぜんざいもちはいかがですかぁ」という売り子さん達の声。出雲大社をお参りした人達が、参道を登り切ると最初に耳に入ってくる。その方向に目をやると、大きな看板に「出雲ぜんざい餅」とある。
出雲大社外苑駐車場から南へ歩いて7分。大きな三叉路の西側に暖簾を下げているのが出雲そばの店「かねや」。中はお座敷とテーブル席が規律よく並んでいる。席は全てが4人掛け。お昼前には店の外には長く伸びる行列も、順番が来ると次々に、淡々とそれらの席に案内される。
古代出雲歴史博物館では、毎年春・夏・秋に「れきはくまつり」を開催しています。ここでは、夏に行われるそのイベントの中でも大変人気のある「勾玉づくり教室」と「藍染め体験」を紹介します。
出雲大社の本殿に向って左後方に、主祭神であるオオクニヌシの「大国(だいこく)神像」が359体も展示された彰古館がある。本殿の姿が美しく望める場所であることもあって、大正3年(1914)に出雲大社の宝物館として造られたこの木造建築に目を留める人はほとんどいません。近づいて玄関の引き……
奥出雲の地、船通山はスサノオが降り立ったところと伝わる。だとすれば、やはりクシナダヒメもここに縁があるのだろうかと聞いてみると稲田姫が生まれたところがあると言う。そのクシナダヒメを産んだのは誰かと言えば、アシナヅチとテナヅチの夫婦である。クシナダヒメが産声を上げた時に、そのへその……
出雲大社で神門通りの坂を上がって勢溜から西へ車がすれ違えるかどうか心配になるような細い脇道「神迎えの道」を不安をよそにずんずん進むと、この「いずもる」でも紹介している、やきそばの「きんぐ」がある。そのすぐ向こう左手が蔵の美術館「手錢(てぜん)記念館」である。歩いて来たならば、駐車……
オオクニヌシが鎮座する出雲大社から、ほぼ真南へ10キロメートルの東神西(ひがしじんざい)という地域に、史跡 岩坪入口と刻まれた大きな石碑がある。さらにそこには、須勢理姫命生誕伝説の地、なめさの郷地名発祥の地とある。石碑から200メートルほど車を進めると、石で作られた小さな社が……
万九千社(まくせのやしろ)は、出雲の地で行われる神在祭に因む場所である。それも神々が寄り来るのではなく、去って行く場所としてよく知られているのである。万九千社のすぐ近くを流れる斐伊川(ひいかわ)は、スサノオがヤマタノオロチを退治した川の下流にあたり、退治の際にはヤマタノオロチの……
みぞれ雪の降る2015年1月12日朝、歴博と出雲大社の間にある かめやま広場で、とんど祭が行われました。
出雲大社正門から神迎え神事の行われる稲佐の浜に向かう道を「神迎えの道」と呼ぶ。木製の鳥居がある勢溜から神迎えの道を浜へ向かって600メートルほど下って行くと、うどんの暖簾が風にたなびいている。「出雲そばの聖地でうどんなんだ」と、つい思ってしまう。綺麗に手入れされた二階建ての古民……
国譲り神話の舞台として有名なこの場所は、「伊那佐の小濱」(『古事記』)「五十田狭の小汀」(『日本書紀』)として出てくる。しかし、『出雲国風土記』には、稲佐の浜の記載は無い。『出雲国風土記』では、国引きを行った綱の跡が「薗の長濱」だとしており、稲佐の浜は地名としは見えないもののこ……
およそ60年に一度の遷宮の後も多くの参拝者で賑わう出雲大社。その本殿と神楽殿の間を、素鵞(そが)川という小さな川に沿って自家用車が通れるほどの細い道が奥の山の方に向かっている。初夏にはホタルも飛ぶと言うから水が綺麗なのだろう。参拝者に気をつけながらその道を進んでいくと、すぐに坂……
決して平坦とはいえない細い山道を息を弾ませながら40分ほど登って行くと道の周りも平らになった場所に着く。ここが『出雲国風土記』に記された四つのカンナビ(神名樋)山の一つに比定されている大船山(おおふなやま)の山頂である。「神名樋」の意味は神と山は文字通りの意で、「なび」は「籠も……
『出雲国風土記』に宇夜里(うやのさと)と呼ばれる地が登場する。出雲郡の健部郷(たけるべのさと)の話であるが、『出雲国風土記参究』を書いた加藤義成さんは「この郷を古くは宇夜里といっていたが、その名の由来は、宇夜都弁命(ウヤツベノミコト)という神がこの郷の山に峰に天から降られ、この……
この「大社の町を楽しもう」のコーナーでうどんを紹介するのは「7分づきのうどん」の小望月さんについで二度目。小望月さんが「やりかたは違うようなんだけど、あそこも黒いうどんを出されてますよ。」と推薦されたお店がここ山太(さんた)である。橙色ののぼり旗に出雲うどんの文字がときおり吹く……
『出雲国風土記』の出雲郡に神名火山(かんなびやま)があって、曽伎能夜社(そきのやのやしろ)に祀られている伎比佐加美高日子命(キヒサカミタカヒコノミコト)の社がこの山の嶺にある、だから神名火山という、と記されている。神名火山は今の仏経山に比定されており、標高366メートルの山頂に……
スサノヲを祀る出雲市佐田町の須佐神社からおよそ2キロメートルほど手前で、ここから1.6キロメートルと示された多倍神社へハンドルを切る。多倍神社にはスサノヲがヤマタノオロチ退治ではなく鬼退治をした痕跡が残っているという。道案内に従って進むと途中から自動車が1台通るほどの山道にはい……
みなさんは疱瘡(ほうそう)という病気をご存知だろうか。天然痘とも言われる伝染病で感染力が高く、致死率も高い恐ろしい病気であった。国立感染症研究所の解説には「明治年間に、2〜7 万人程度の患者数の流行(死亡者数5,000〜2万人)が6回発生している。」とある。こうした恐ろしい疱瘡……
ザザーン、ザザーンと寄せ来る日本海の波が砕けて広がる白い泡ぶくの中からラグビーボール大の赤い石がゴロゴロと現れる。ここは赤浦と呼ばれる島根半島の中央部に位置する海岸である。晴れ渡った青空のもと、海にはいくつかの島が見え、この日はお坊さんを始め、多数のみなさんが波の音に耳を傾けな……
pualは飼っている犬の名前。tyttoはフランス語で女の子。7年前に妄想で始まった雑貨屋。その妄想のお店が2年後には4畳半ほどの広さをガソリンスタンドに間借りしてスタートした。それから2年が経ち、とうとう古民家の一角を改修して、温もりを感じるお店pual tytto(ピュアル……
以前、このいずもるの「神名火山の磐座」において、現在の曽枳能夜(そきのや)神社に祀られている伎比佐加美高日子命(きひさかみたかひこのみこと)が、かつて祀られていた仏経山中腹の磐座「伎比佐の岩」を紹介した。ところが、もう一つ別の伎比佐の岩があるという。
一畑電車の電鉄出雲市駅は、JR出雲市駅の東側に隣り合っている。その一畑電車の駅を10メートルほど通り過ぎるとレンタサイクルがある。今回は電車には乗らずに、まずは自転車でGO! 高架になった線路に沿ってビルや家々を眺めながら東に向かうと、500メートルほどで緑の森と白く光る御影石……
武志駅から電車に乗って旅伏駅に向かうと車内アナウンスが、川跡駅で大社行き、松江行きともにそれぞれ乗り換えで、旅伏駅に向かう松江行きは線路を渡って1番乗り場、大社行きは同じホームで2番乗り場と伝える。間もなく、乗っている電車は、他の色をした電車が2台並んで待つ川跡駅に滑り込んだ。……
『出雲国風土記』には5カ所の烽(とぶひ)があったと記されている。烽は緊急時に狼煙(のろし)を上げて急を伝える施設である。その一つ多夫志烽(たぶしのとぶひ)が出雲市の北に連なる山々の東端にある旅伏山(たぶしさん)にあったというので、登ってみることにした。標高456メートルの旅伏山……
風の噂で「とんでもなく大盛りの丼物を出す蕎麦屋」があると聞いたことがあった。検索すれば、大人の頭二人分もあろうかという器の画像。「島根にデカ盛りの店があるとは」と驚きの口コミ情報。この「そば酔譚」カテゴリーでは扱う代物ではないと「知らぬ顔の半平衛」を決め込んでいた。が、しかしで……
出雲市役所と通りを挟んだ小洒落た佇まい。その景色は暖簾を出しながら打水する古都の一角を連想して心が弾む。 2015年創業は名だたる出雲蕎麦屋の立ち並ぶこの地にあって如何にも若い。が、短期間で名を上げた所以を探る興味がふつふつと湧き出し、不覚にも胃袋が蠕動(ぜんどう)を始める……
波打ちぎわに夕日を背にした弁天島も美しい、ここ稲佐の浜は、『古事記』の「国譲り神話」において、オオクニヌシが高天原からの来臨したタケミカヅチに、国を譲る代わりに宮を建ててもらいたいと伝えたとされる場所である。そのタケミカヅチが稲佐の浜に近い因佐(いなさ)神社に祀られているという……
自転車とともに、川跡駅の2番ホームに停まっている出雲大社前駅行き一畑電車に乗り込む。この日は4月中旬の日曜日で、松江から来た2両連結の電車はほぼ満席。車窓からは田おこしされた田んぼがいくつも見えて、早くも水が張られた田もあった。もうすぐ高浜駅という線路沿いに一畑電車が2両あった……
前回の続きとして、おたれの滝の次から始めたいのだが、その前に高浜駅の次にある遙堪駅の近くの特別なスポットを紹介しておきたい。 遙堪駅に向かう車窓の南側に、赤い鳥居の並ぶところが目に飛び込んで来る。そこは粟津いなりとも呼ばれる稻生(いなり)神社である。参道に並ぶ20基の赤い鳥……
民藝の創始者の一人であり陶芸家として知られる河井寛次郎が、出雲の町で乗っていたタクシーを慌てて止めて飛び降り、そこにあった火鉢を手に取って、今までにない喜びようを示し、「出雲びとに造詣の血というものが流れているならば、その出雲びとの造形の結晶であり、出雲の美しさの典型の一つだ。……
「炭と薪で炙るグリル料理がメインなんです」、と言いながら撮影に出て来たのはリーフサラダと和牛のほほ肉赤ワイン煮である。「なにか炙った料理が良かったですかねえ」、と店主は口にしたが、細かいことなど頓着しない自由。ここは、出雲大社の勢溜(せいだまり)から神門通りを50メートルほど下……
『日本書紀』の国譲り神話には、出雲大社に近い稲佐の浜に降り立ったタケミカヅチとフツヌシの二神が、オオクニヌシと国譲りの交渉をするシーンある。その二神に先立って国譲りの交渉に天下った神々がいた。アマテラスの命を受けて最初に天下ったのはアメノホヒ。しかし、彼はオオクニヌシに従って3年……
『出雲国風土記』に「伊弉那彌命の時、日淵川に池を造った。ちょうどその頃、古志の国から人が来て堤を築いた。その時、彼らが宿としていたところである。だから古志と地名が付いた」という記述がある。『古事記』にはオオクニヌシが高志の国へ行きヌナカワヒメを娶ったという話があるが、これらなどか……
出雲大社の近くの路地を歩いていると、珍しい洋風の古い建物があって、昔は何に使われ、誰が住んでいたのだろうかと思っていた。それがある時、カフェになっていたのだ。 親しい人に美味しい店ができたからと誘っていただいて、もう日が暮れていたけれど、連れて行ってもらった。その洋風の建物には……
出雲大社から人気の稲佐の浜に向かう途中に奉納山という山がある。標高は73mといたって低い山であるが、ここからの眺望は絶景であるから、稲佐浜や日御碕に行くのであれば、ちょっと寄り道してみると良いと思う。出雲大社からやって来て、ゆるい坂を登り切って下り始め稲佐の浜が見えたぞってあたり……
朝日のまぶしい光が降って来る静かな白壁の通り木綿街道。出雲市平田町の古き香りを残す500メートルほどの通りには、今でも往時のにぎわいを感じさせる醤油を醸造している店が3軒もある上、造り酒屋も1軒あるのだ。それらに並んで300年前の製法で甘い「生姜糖」を生みだすお店も大きな木の看……
出雲大社から日御碕へは、険しい海岸沿いのグネグネとした道、みさきうみねこ海道を行く。昔は稲佐の浜から因佐神社近くの観音霊場長谷寺の脇から山に入って、そのまま山伝いに歩いて日御碕へ行ったという。その道は中山道(なかやまどう)と呼ばれ、日御碕神社への参詣道でもあって、松江藩主が籠に……
(1)のおゆう茶屋記念碑から西の海に目をやると、直線で100メートルほどのところに展望台が見える。その日御碕海岸展望台に行くと、右手遠くに稲佐の浜が見える。また正面遠方には、国引き神話にある陸を引いた綱を掛けた三瓶山、またその綱の跡と伝わる園の長浜の白い砂浜が、細長く緩やかに曲が……
冬の灰色の雲がどんよりと街を覆った2月の朝、冷たい雨交じりの強い西風が吹いている。こんな日に祭りはあるのだろうか。大社からみさきうみねこ海道を日御碕に向かっている。今日は日御碕神社の和布刈(めかり)神事の日なのだ。一般に知られている和布刈神事は、午後から日御碕地区の隣の宇竜地区で……
7月の梅雨明け前の日曜日、三瓶山の東に続く青々とした山並みの中に、細く続く田んぼが山に接するあたりある鳥居をくぐって、鮮やかな衣装で太鼓を抱えた人たちが長い石段を上がって角井(つのい)八幡宮の境内にやってきた。若い女性も何人か居て、多くは絣(かすり)の着物に赤い襷(たすき)を掛け……
昭和も前半の生まれならば、獅子舞と聞いたら大体の方々は、赤い獅子の頭が家々をまわり、門前で囃子方の笛の音に合わせて舞って、中には家人の頭にかぶり付いて悪霊を祓うようなシーンを思い出すのではないだろうか。今回紹介するのは、そうしたものではなく、神社の祭礼として舞われている獅子舞であ……
先日、久しぶりに出雲大社に参拝した。今回は案内のガイドさん付きという初めての体験。説明を聞きながら回った中で、へえ、そうなんだと驚いたのが、本殿の東側の縁に小さな祠のような、神輿にしては簡潔な家型の物が置いてあるのだが、それが、遷宮の時に御神体を乗せた神輿だというのである。201……
出雲大社の創建はいつだったのか。一般には、「国譲りした時でしょ。」とか良く言われるが、実は、これが多くの研究者が取り組んでいる難問であって、『古事記』『日本書紀』の国譲り神話には、出雲の国を譲る代わりに大きな御殿を立てることになったことは描かれているが、それが何時だったのかは書か……
地上約3メートル、古代出雲歴史博物館の広大な庭園を眺めながら、おいしい食事やコーヒーが味わえる場所がある。そこは、maru cafe(以後、マルカフェ)。博物館の2階、空中に浮かぶような空間で、古代出雲にタイムスリップしたかのようにゆったりと時間が流れます。
海から遠く離れているのにもかかわらず、岩に海苔が生える伝説があるという。場所は、出雲市野石谷(のいしだに)というところである。出かけてみると、庄屋垣という屋号の家で、家の方が農作業の合間らしかったので、海苔の生える岩というものを探して来たのだと伝えると、家の裏に案内してもらい見せ……
出雲大社の東隣にそびえる弥山、標高506メートル。頂上から大社はもちろん出雲平野が広々と見渡せる。寛永15年(1638)頃、ここから足元の菱根地域を見下ろした人物、三木与兵衛がいた。湿地帯であった菱根地域に堀貫川を掘って灌漑し、江田、八島、浜、入南、菱根の五ヶ村と田畑を生み出した……
山を御神体とする社があるというので、資料を探してみたら磐座の白黒写真が載っていた。さっそく磐座好きの友達を誘って雲南市木次町にある室山に向かった。近くには、国内でも有数の美味しいワインの里となった奥出雲葡萄園がある。その入り口を通りすぎ、釜石という伝説地も通り過ぎて、山を上がって……
平田の木綿街道に、その昔、「外科御免屋敷」とも呼ばれた古い建物があった。長崎医家という江戸時代から明治時代に医院だったところだそうだ。そうした古い建物を平成18年に改修して、出雲市立の観光案内所「木綿街道交流館」としてオープンしたものという。道路に面した表は海鼠壁(なまこかべ)が……
先に紹介した布須(ふす)神社と御室山(みむろやま)について、補足して紹介しておこうと思う。学説では、『延喜式』、『出雲国風土記』に載る布須神社は、同じ雲南市加茂町に鎮座する布須神社ともいわれている。また、『出雲国風土記』に載る御室山は、同じ雲南市大東町中湯石室谷の奥の山(標高47……
出雲平野を斐伊川とともに潤す神戸川の上流に、いくつもの急峻な岩山がそびえる立久恵峡がある。昔、その河辺に夜な夜な呼ぶ声があって光を放って、人々が奇異に思っていた。その場所に、高野山の浮窓律師が訪れた時、河中より背に光る薬師仏を負った亀が浮かびあがった。律師はその仏を岩窟のある岩山……
松江藩主の中でも茶道に長けて有名な松平治郷(不昧公)が藩主になる前、明和3年(1766)、16歳の時に立久恵峡を訪れ、彼より以後の歴代藩主が毎年、立久恵峡を訪れたと云う。この2年前の宝暦14年(1764、明和元年)の3月、松江藩家老の大野舎人が、松江藩主に学問を教えていた桃白鹿(……
鬼滅の刃というアニメが随分と人気を博して、世界へ進出した。親兄弟を人喰い鬼に殺されてしまった少年が主人公である。そんなこともあってか、ある時、図書館で「鬼の研究」という本を手に取った。すると、その中に鬼の文字が登場するのは、出雲国風土記が最初だというので、びっくりした。読み進める……
平田の木綿街道に大工さんが店を開いたと聞いて木綿街道に向かった。醤油を使った美味しいアイス「醤油愛す」で有名な醤油屋の岡茂一郎商店の東隣に、玄関周りが真新しい白木の建物があった。よく見るとガラス戸の内側に白木の格子戸が並んでいた。筆描きされたWOOD WORKSの文字が並ぶガラス……
そのパン屋は葡萄畑の中にあった。店は出雲市の中心部から出雲大社へ向かう途中にある浜町あたり、出雲国風土記の時代には、神門の水海(かんどのみずうみ)の岸辺に当たる場所で、砂の降り積もったなだらかな丘が続いている。この丘から北山にかけて広がっていた神門の水海が江戸時代の初めには広大な……
松江市の南部にある東忌部町の忌部神社の横を過ぎて、さらに南に行くと才の峠(さいのだわ)というくねくねと曲がる峠を越える。峠から先は雲南市大東町となり、まもなく左手にはスサノヲが日本で最初の和歌を読んだ地として知られる須賀神社がある。そのまま進むと、松江の奥座敷と謳う海潮(うしお)……
『出雲国風土記』には、オオナムチ(オオクニヌシ)の息子のアヂスキタカヒコ(阿遅須枳高日子)命が、髭が長々と伸びる年齢になっても、昼も夜も泣いてばかりで言葉も通じなかった、とある。これは、『古事記』や『日本書紀』に登場する垂仁天皇の皇子であるホムチワケが、大人になって髭が胸先に達し……
「その目は赤いホオヅキのようで、一つの身に八つの頭と尾があり、その身には苔やヒノキやスギなどが生え、長さは八つの谷と八つの峰に渡り、その腹を見れば常に血がしたたりただれている。」これは、『古事記』に載るヤマタノオロチの姿である。『日本書紀』にも、ほぼほぼ同様に描かれている。およそ……
「八塩折(やしおり)の酒に酔いつぶれた大蛇を退治した須佐之男命は、この御立薮(おたてやぶ)で大蛇の尾を開いて宝剣を得られたが、その宝剣の上に怪しき雲があったので、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と名づけて天照大御神に献上になり、後、三種の神器の一つとして今も名古屋の熱田神宮……
洪水を起こす斐伊川をさらに遡って行くと、八俣大蛇(やまたのおろち)公園なる場所があった。桜の名所として有名な木次土手の一角に、石で作られたヤマタノオロチの大きな頭部の彫像がデーンと座っている。スサノヲが高天原から降り立った時に、ここで川の上流から流れてきた箸を見つけて、上流に人が……
木次の図書館で見つけた郷土誌の「案内誌〜自治会の記録〜」には、壺神さんの他にも、今まで聞いたこともないヤマタノオロチ伝説の地が三カ所も記載されていた。それは「はらかじ」「尾瀬(おのせ)」「座座舞(ざざまい)」の3カ所である。しかし、場所が分からない。そこで、気になっていた壺神せん……
ヤマタノオロチが住んでいたという伝説のある天が淵(あまがふち)について、あるホームページには、『斐伊川上流、木次町と吉田町境にある「天が淵」はヤマタノオロチが住んでいたところといわれています。また、天が淵には、「蛇帯」と呼ばれる青と赤の筋になっている石があり、ヤマタノオロチの足跡……
『天淵八叉大蛇記』にあるヤマタノオロチの姿、形については、「八つの頭、八つの尾があり、十六の角は、天にも届く枯れ木のごとし。十六の目は日月の輝くごとし。上下の牙は、剣を交えるがごとし。その息は、火炎の色のごとし。その舌は、紅(くれない)の袴(はかま)を速き瀬に流したごとし。その大……
オロチの話がこんなに続くとは思っても見なかったが、その姿、形を求めてみると、その伝承地をこれだけ巡ってみても、結論めいた物語に行き当たらない。少し箸休めに、オロチ退治を巡る間に、スサノヲとイナダヒメの逸話もいくつかあったので、ここでそれを紹介してみようと思う。
箸休めの続きである。テナヅチとアシナヅチが娘を挟んで泣いているところをスサノヲに尋ねられたところは、天が淵の近くではなく福竹と呼ばれる場所だという。地名の由来は、テナヅチ、アシナヅチが、ヤマタノオロチから逃れるために天が淵の背後にある万歳山からその北側の万昇峰を超えてやって来て、……
この(その9)では、ヤマタノオロチについて伝承されている地域はどこなのか、はたまた何カ所ぐらいあるのだろう。と探索した報告となっている。これまで紹介した場所もあったが、まだまだ知らない場所もあった。図書館を巡り巡って行きついたのが、斐伊川をはじめ江川、太田川、四万十川など中国四国……
前回の(その9)でヤマタノオロチに因む場所がとても多いことが分かったが、それでもまだ他にもヤマタノオロチに関わる場所があった。今回は、先の一覧には無かったヤマタノオロチの尾を祀った社を紹介する。それは現在の雲南市木次町平田にある尾原ダムの南側、下流500メートルほどのところに鎮座……
大社に来たなら一度は登ってみてほしい山がある。出雲大社から東へ約1キロメートル、地元で弥山(みせん)さんと呼ばれて親しまれている弥山である。標高は506メートルと低いが眺望は絶景で、広い出雲平野から日本海が一望でき、そこに稲佐の浜、出雲大社、海と陸を分けて弓なりに伸びて、国引きの……
弥山と書いて、「みせん」と読む山は、その頂上にある巨石群があって有名な広島の宮島の弥山などが有名だけれど、この出雲の弥山の標高は506メートルで宮島の弥山よりわずか29メートル低いに過ぎない。人気のNHKの番組「にっぽん百低山」では、すでに宮島の弥山は紹介されたようだが、ぜひ出雲……
ここまで弥山の物語を書き連ねてきたが、弥山は神仏を祀るとともに麓に暮らす人々に恩恵を与えるような事が起きてきた場所であって、弥山が信仰され続けるもとになっている物語がもう一つある。それは、江戸時代末期のこと。弥山にあった権現様へ参拝登山した男がおり、足元に一株の草を見つけ、「珍し……
大国主の御門(みと)がここところにあったので、三刀矢(みとや)という。今の雲南市三刀屋(みとや)町の地名由来が『出雲国風土記』に見える。この御門は、神門(かむど)郡の神門や仁多郡の神御門(かみのみと)と同じように神域への門、つまり鳥居と考えられるという。それも、遠く離れた出雲大社……
三屋神社の由緒書というものが、地元で編纂された『一宮の今昔 給下編』に載っていた。そこには、「出雲国造の祖先の出雲臣や神門臣等が此地に大神を奉斎した神社を創建して、そのご神地を定め、神戸を置いて、大神の宮のご料を調進することとなったので、社号を大神の宮垣の御門と、その神戸とに因ん……
出雲大社の参道入り口にあたる勢溜(せいだまり)から神門通りを下って、およそ100メートルのあたりに来ると、左手にゆるやかに下って行く道がある。馬場通り呼ばれるこの道をさらに100メートルほど歩を進めると、左側にガラス戸の並んだ大きな古民家がある。ここがチョコレート工場だと言われて……
『出雲国風土記』に埋蔵金伝説のようなお話がある。大原郡神原郷に書かれている「大国主が神御財(かみのみたから)を積み置かれたところである。」というくだりである。風土記が書かれてから約1250年後の昭和47年、神御財ではないかというものが掘り出された。それは、『魏志倭人伝(ぎしわじん……
歴代の朝廷に「麻布の機職として仕えこの地に住まいした一族によって創建されたと伝えられる」と島根県神社庁のホームページで紹介されていた幡屋神社(雲南市大東町)。社地は、宮内谷という地域で、小高い山を背にして神社はあった。鳥居の横にあった神社の由緒書からは、社地が移り変わったことや他……
地元で美味しいお好み焼き屋があるよ、と知人に紹介されたので行ってみた。場所は、神門通り交通広場有料駐車場の出入り口の北側角。ガラスの引き戸を開けて中に入ると「いらっしゃいませ」の声が響く。テーブル席について、メニューを開いて真っ先に目に入るのは、手打十割の割子そば。次のページが丼……
出雲大社の参道入り口の勢溜から神門通りを下って、300メートルほどのところにある路地の奥に「ゑびすや民営ホステル」という黒地に白い手書き文字の看板が見える。いつも気になっていた看板である。「ゑびすや」はホテルでも旅館でもなく、ユースホステルでもないようだが、ゲストハウスだろうか?……
大社の風情ある町並みには人力車が似合う。明治時代や大正時代の大社の通りの写真を見ると、多いものでは8台もの人力車が分かる写真があって、中には山高帽のような黒い帽子を被った紳士が乗っている。明治23年(1890)にラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が大社に来た時も人力車で馬場通りを進……
神門通りの坂のてっぺんにある勢溜(せいだまり)から神門通りを見下ろして、左手に「おくに茶や」がある。建物は大きく寄棟(よせむね)造りで目立つが、その大半はストーンアクセサリーの「めのや大社店」が占めているので、おくに茶やという店があるとは気づきにくいのだが、引き戸を開けて暖簾をく……
大社の町で数少ないお寿司屋さんが、出雲大社の境内入り口の勢溜(せいだまり)から、歩いてわずか3分あまりのところにある。その名は浪花鮓。鮓と書いて「すし」と読むので「なにわずし」である。鮓、鮨、寿司の由来は奥深いのでここでは触れないが、昭和の遷宮があった昭和28年に、今の店主の服部……
出雲市佐田町にある須佐神社の境内に、大きな花傘が2本立っている。高さ5メートル余りもありそうに見える二段重ねの花傘には、白地に赤い桜の花が付いていて、これが670個ほどもあるそうだ。花傘の最上段で、奉迎神霊御光臨の黒い筆文字が書かれた赤い幟が、青空をバックに風になびいている。
出雲大社の東側、命主社のある通りのすぐ先の築約100年の古民家が、ゲストハウスに生まれ変わった。出雲の雰囲気や文化をディープに感じるにはもってこいのゲストハウスはmanai7.stayという。もともとここは、「まないな」という自然食カフェだった。さらにそこが巨石ハンターこと、写真……
出雲大社駐車場の北の端から神楽殿に向かって歩き始めると、蕎麦屋や土産物に挟まれて、間口一間ほどの小さな売店がある。店頭の冷蔵ショーケースには、出雲名物のアゴ野焼きが並んでいる。また、小さなハート型の蒲鉾を3つ串刺しにした淡いピンク色の蒲鉾などもある。アゴは飛魚のことで、飛魚のすり……
雲南市加茂町に低いけれど、とても美しい姿の山があって、通るたびに気になってしょうがなかった。調べてみると高麻山と書いて「たかさやま」と呼ぶらしい。標高は195メートル。場所は、加茂町の中心部にある加茂中駅から1キロメートルあまり東にある山である。出雲国風土記にも載る山で、スサノオ……
島根県は古代より製鉄を行う たたら操業 が盛んなところとして知られているが、その主な場所は、菅谷(すがや)たたらのある雲南市やたたら操業の技術を現代に継承する「日刀保(にっとうほ)たたら」のある奥出雲町など、山間部の地域がよく知られている。ところが、日本海からわずか700メートル……
最近になって、「山中に海、船の文字」で取り上げたウノヂヒコノミコトに関連する場所が、海潮神社の他に5ヵ所あることが分かった。それを紹介する前に、海潮(うしお)を振り返ると、「ウノヂヒコノミコトが父親のスガネノミコトを恨んで、北の方の出雲の海潮を押し上げて、父神を漂流させ、その海潮……
正月の小伊津は歳神祭りで賑わうと聞いていたが、その祭りはコロナでほぼできなくなっていた。それが、2025年正月は、5年ぶりに歳神さんを歳徳神社から自治会館に迎えて開催されると聞いて小伊津に向かった。日本海に面したこの漁村は、港から競り上がる山肌に石州瓦の赤い屋根の家々が張り付くよ……
正月、小伊津の歳神祭りが4日に終わり、次には12日の夕方にトンドさんがあるが、その神木竹迎えが昼過ぎにあるという。なにやら秘めたる行事の香りがする神木竹迎えは、トンドさんで燃やす竹を山に切りに行く行事だという。お願いして、神木竹迎えに参加させてもらった。12日の昼下がりに小伊津自……
出雲国風土記ができたころの今からおよそ1300年前、この出雲地方には、今もある中海と宍道湖の他に、神門水海(かんどのみずうみ)という呼ばれる湖のあったことが知られている。その範囲は、神門水海の名残である出雲市の西にある神西湖から出雲ドームあたりまで広がっていた。今は埋まってしまっ……
出雲市駅から北へ向かって500メートルほど行くと、一筋の川が東から西へ向かって流れている。川の名は高瀬川。そこに架かる橋は三京橋という。この川は人の手で造った運河である。昭和30年代、三京橋から600メートルほど下流にある海上地区に住んでいた私にとって、高瀬川は格好の遊び場で、フ……