メニュー


人は時を旅する

ひとはときをたびする 

食べる安来エリア平成時代

 松江からJR山陰本線で25分。車中大橋川、中海と景観を満喫しながらかつて「はがねの町」として栄えた安来駅に降り立つ。この地に昭和25年創業の「出雲そばや」があると聞き及び、ノスタルジックな町並みを尋ね歩く。なまこ壁に設えられたあんどんには、勘亭流文字で「志ばらく」の屋号。その下の木戸をくぐればまさしく「時代屋」の趣で胸ときめいた。


 「先々代の趣味で集められた民芸品」と、女将前田桂子さんは説明されるが、さりげなく陳列された焼き物や書は誰が観ても「骨董」の類(たぐい)。作者の名を聞き、まさにもんどり打って「ここが蕎麦屋?」。しかしここは確かに蕎麦屋の二階。「サイン帳」と言われた年季の入った芳名帳には、店を訪れた著名な文化人、政治家などが名を連ね…。「民芸蕎麦屋ですから」と女将の屈託のない笑顔。
 酒樽の底板で作られたテーブルは、使い込んだ色合いがどんな食器をのせてもきちんとその風合いを醸し出す。せっかくなので丹波焼きのお銚子で、とねだる。酒は安来の老舗「金鳳(きんぽう)」の上撰。あの「山は大山、お酒はキンポー」だ。三代目の前田誠さんが「お出しする蕎麦に使う出汁と薄口醤油だけで」と出汁巻き卵を運ぶ。板場の腕がわかると言われる出汁巻きを敢えてハナに出されると、厭が応にも身構えてしまう我が輩の卑屈な根性。湯気のでているうちに食さねば失礼にあたると、作者の目の前で箸を付ける癖は無礼講。
 地産卵の香りが芳醇に広がる。大阪で割烹料理を修業した技であろう、素材の味を生かした見事なまでの逸品に仕立て上げてある。アオギスのつみれと大根のおでんも上品な味付け。癖の無い酒がしっかりと料理を更に引き立てている。
 さてこれからが極めつけ。小鉢ながら、酢の物はホタルイカ、キュウリ、ワカメにミョウガ、スダチ、大根おろしはトマト酢でいただく贅沢さ。この器が有田焼とくれば非の打ちようが無い(かといってこちらが問いただすまで器の出自を言わぬはそれが初代からの伝統か)。甘鯛の飯蒸しに至っては素材の色味をそのまま生かし、会席の華であること間違いなし。
美味き物は食も酒も際限なく、掛けられた歌舞伎の役者絵に気がつくのにはちと遅すぎたの感。鎌倉権五郎(歌舞伎十八番「暫(しばらく)」の主人公)がこちらをにらんでいる。ここは蕎麦屋と正気に戻り、名物の「割子いもかけそば」を注文。濃いめの出汁に九割一分の更級仕立ては喉越し良く、しかし親指の先程乗せられた山芋が香りよく味わい深い。少量の山葵で頂くのはこれも小気味よく、食する側の心を測っての所作か。初代より市内「乗想院」で汲み上げる水にもこだわりがある。味も香りもとにかく納得、満足他に言いようがない。

充足して落ち着き取り戻し、ふと浮かんだ映画のワンシーン。板場で蕎麦を打つ初代。茹で上げる二代目、盛りつけと調理は三代目。そして女将が二階に運ぶ。座敷には窓辺に河合寛次郎(陶芸家)、ごろりと横になった松本清張(作家)、あぐらをかいて座っているのは岡本喜八(映画監督)。カメラの後ろには今村昌平監督が…思い思いの格好で酒を飲んでいる光景は六十余年の歳月をワンカットに納めることが出来る驚きがあった。
「よき店にはよき人が集う」この場所で酒を飲み美味い物を食している自らを、この上もない幸せ感が包んだのは言うまでもない。




金鳳酒造の上撰

金鳳の上撰

柔らかな出汁巻き卵

出汁巻き卵

酢の物はホタルイカなどをトマト酢でいただく

ホタルイカの酢の物

松本清張が残した直筆サインと似顔絵

松本清張の直筆サインと似顔絵