出雲市佐田町にある須佐神社の境内に、大きな花傘が2本立っている。高さ5メートル余りもありそうに見える二段重ねの花傘には、白地に赤い桜の花が付いていて、これが670個ほどもあるそうだ。花傘の最上段で、奉迎神霊御光臨の黒い筆文字が書かれた赤い幟が、青空をバックに風になびいている。
お盆の8月15日、この須佐神社で午後3時から行われる夏祭りは切明(きりあけ)神事と呼ばれている。境内には、自治会ごとの提灯や小学生の書が張り出されていたりして、地域の祭りの雰囲気を盛り上げていた。その中で、夏の暑い日差しを避けて樹木や建物の影で、地域の人に混じって観光客も祭りの始まりを待っている。参道には屋台も並んでいて、夜には地域の風祭り(盆踊り)や虫送り、神楽の上演もあるので大勢の人で賑わうそうだ。
午後3時が近づくと切明神事で踊られる念仏踊りの踊り手が境内に現れ始め、拝殿前に集まってお祓いを受ける。人数はわずか7人。それぞれに鳴り物を携えている。子役の太鼓が1人と鼓(つづみ)が2人、そして大人の鉦(かね)が3人。笛が1人。その頭に被った笠の上には五色の花飾り、笠の縁からは赤と緑の紙垂(しで)を下げて、着物は紺の木綿地に上から亀甲、稲妻、四つ目の模様が白く染め抜かれている。昔は浴衣だったという。着物の両脇を少し持ち上げて帯に挟むという姿。
お祓いが終わると、境内の随神門(ずいしんもん)近くに集まって並び、鳴り物を鳴らしながら拝殿に向かって進む。そして拝殿前の花傘の下に並んで踊りが始まる。素足の少年たちが脇に立つ笛の音に合わせて鉦、太鼓、鼓を鳴らしながら、何やら口ずさんでいるようだが、これは、「なあまみどう(南無阿弥陀仏)」と唱和しているそうで、区切り区切りで鉦、太鼓、鼓を打ち、前に、左へ、右へ1歩進んでは、また戻るというような動作で、祭りの研究者からすると、これが田楽を感じさせ、行きつ戻りつする様子が盆踊りを思わせるのだそうだ。唱和は他に「ねんのう はいなんひんでん なんまいどうや デンデコ デンカラカ カン カン カン」となっているというが、これも口ずさみで良く聞こえなかった。
踊りは、1段から5段まであるそうで、鉦の3人が太鼓と鼓の3人を囲んで踊る場面もある。こうして踊りが終わりに近づくと、大きな花傘の芯に大人が数人取り付いて、花傘を振ったり、回したりしはじめる。時々倒れそうになるので見学者から「おお〜!」と声が上がる。
昔は、花傘を持ち上げて、踊りの周囲を回る「花回し」があったという。それは、およそ40キログラムもある花傘を持ち上げて歩くもので、花はできるだけ長く持つことが吉兆とされて簡単に倒すわけに行かなかったという。控えの綱が3本あっても、バランスを取って歩き回るのは、そう簡単ではなかっただろう。「花回し」は、依代としての花に集まり鎮まっている神、仏、精霊が一体となって、外に向かって活動を始め、あたり一面に祈願の御蔭を撒き散らすことだという。この世を高天ヶ原、極楽浄土の世界にする神事という。
花を閉じている紐が切られて開けられるシーンを見ていると、そこから御蔭が飛び出してくる感じがした。そうして、花傘が倒されると、参拝者が我れ先に花を取りに行く、この「花奪い」は花に鎮まる神霊のご利益を祈り取る行為であり、田畑のすみに立てて虫よけとしたり、縁起物として玄関や床間に飾るという。
祭りは江戸時代に盛んであったらしく、鉦には文政8年、宝永8年の文字が刻まれているそうだ。それが明治になって神仏分離令とともに、祭りは一旦途絶えたが、明治40年年に復活したという。そうした経緯や花笠の作り方、歴史などについては、明治生まれの畑中国市氏に聞き取りした昭和55年佐田町教育委員会発行の『須佐大宮念仏踊り』に詳しい。
民俗学的には、この祭りは紀伊半島の熊野信仰を広めた修験山伏などによって熊野の神、切目王子、キルメノミコトを祀る祭りとして持ち込まれたものと考えられており、島根県内に他にもある切明の神名や神社名、神楽の演目「切目」などにその名残が感じられるという。(ライター 三代隆司)
この 須佐神社 に関してGoogleMapで検索できる緯度経度を以下に示します。
須佐神社 35.234542, 132.737276