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日本を産んだ母神の埋葬地か?

にほんをうんだははがみのまいそうちか? 

見る知る体験する安来エリア

天浮橋(あめのうきはし)に立った夫婦の神様が天沼矛(あめのぬぼこ)という長い棒のようなもので、漂っている国土をかき回すと、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となった、と『古事記』に記されている。そして二人は生まれたばかりのこの島に降りて、日本の国土と数多くの神々を産んだのです。


この夫婦神は、伊耶那岐(イザナキ)・伊耶那美(イザナミ)の二神である。多くの神々を生んだ伊耶那美が最後に産み落とすのは火の神様だったため、産んだ自らが焼け死ぬのである。そして葬られたのは、『古事記』によれば、「その神避れる伊耶那美神は、出雲国と伯伎国(伯耆国)の堺、比婆之山に葬りき」と記される。
その比婆山の比定候補地の1つが島根県安来市の母里の奥にあるその名もまさしく比婆山である。山の麓の横屋地区には比婆山久米神社の下の宮があって、ちょうど訪れた時は大祭の幟旗がはためいていた。比婆山はこの下の宮の後方の山であり、標高は330メートル、境内左手の山道を行くと約1キロメートルで山頂に至る。この山道はその昔、母里藩の殿さまが籠にゆられて参拝した道と言われ、山道にしては少し広い。木漏れ日の中を歩くことになる。また、登山口はこの他にも横屋から県道を約1.3キロメートル行った峠之内(たわのうち)からも登れる。霊山比婆山の石碑や案内看板が立っていて、ここからは約900メートルで山頂となる。途中までは道がコンクリート舗装され、その後は木の階段となっていて歩きやすい。(動画はこのコースを行ったもの)
山頂には久米神社奥の院があり、その拝殿の後ろに古墳と思われる盛り土がある。これが伊耶那美の御陵なのだろうか、と想像をたくましくする。大祭で来られていた地元の人に聞くと、そんなに古いモノではないと言われる先生もおられます、とのことだ。昔はこの御陵のある場所を御陵峰と呼び、少し離れた社祠峰から遥拝したものという。また3つ目の峰である妙見峰を夫の伊耶那岐に見立てて、この三峰を比婆山と呼ぶそうだ。
戦前は、安産の神様として身重のご婦人なども山に登り人が列をなしてお参りされたそうで、社祠峰にはお土産屋もあったほど近郷近在の信仰を集めていた。その証拠に祭礼の時には、その山頂に屋台が立ち並び大賑わいだったそうだ。この山頂周りには、その安産祈願にちなむ玉抱石やちんちん井戸、陰陽竹など見どころ満載だ。
比婆山よりも北奥にある永江(長江)山は、『出雲国風土記』にはオオナモチノミコトがここに降り立ち、「八雲立つ出雲の国は自分が鎮座する国として守る」と言われたので、母理(もり:現在の母里)と地名が付いたとしており、さらにスサノヲノミコトが「ここに来て心が安らかになった。」と言われたので安来と付いたと言われる。
そして、ここがホントに伊耶那美の終焉地かと言えば、同じ安来市広瀬町比田にある御墓山、さらに安来市伯太町安田の裏にあたる鳥取県南部町の母塚山(はつかさん)にも同様の伝説がある。まさにこの周りは比婆山伝説が濃厚に伝承されているのだ。
ここの案内地図は、母里にある安来市役所の伯太支所に置かれてある。この比婆山に葬られた後の再生と夫である伊邪那岐との争いは、比婆山から北西におよそ15キロメートルのところにある黄泉比良坂(よもつひらさか)の伝承へとつながっている。