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出雲人の律儀さ伝える蔵の美術館

いずもじんのりちぎさつたえるくらのびじゅつかん 

見る知る出雲エリア平成時代

出雲大社で神門通りの坂を上がって勢溜から西へ車がすれ違えるかどうか心配になるような細い脇道「神迎えの道」を不安をよそにずんずん進むと、この「いずもる」でも紹介している、やきそばの「きんぐ」がある。そのすぐ向こう左手が蔵の美術館「手錢(てぜん)記念館」である。歩いて来たならば、駐車場に入らずに、もう少し進んでみると良い。記念館のもっとも美しい白壁の入口が迎えてくれる。


 この手錢記念館の基となっている手錢家は、江戸時代初期に雑穀商として歩み始め、後には造り酒屋を営み、木綿を扱う商売もしたり、藩の馬屋に敷く葦(よし)を刈って収めたりと、なかなか商売熱心だった。それが松江藩の目に留まり藩主や藩役人の宿泊を担う民間の御用宿(本陣とも呼ばれる)を仰せつかった。藩主の出雲大社参拝、家老等重役の代拝、1810年の遷宮後などには奉行の険分。また御殿女中の連れだっての参詣、さらには石見銀山の代官の参詣など、御用の多い大社では、大村家、藤間家、柳原家など常に四軒あまりが御用宿を勤めており、手錢家でも多い年には5回も6回も担当している。なかでも藩主であるお殿様がお目見えになると、供の者を含めた総勢は100名にもなるので、町を上げて宿になったと思われる。
 今のように冷蔵庫やオーブン等の調理器具のない時代に、大人数の食事を賄うのは男衆の仕事であった。そうした材料費、手間賃の大半は御用宿の負担だったようである。さらにその御用宿の働きに対し殿様から銀一枚のお礼をいただいた時には、当主自らが松江に出向き、家老を初めてとして多くの役人や御用医者、僧侶、茶の湯の手伝いやお風呂の手伝いをしてくれた者などまで含めて約100 名にお礼を配って回っている。ひたむきに尽くす、おもてなしと気配りのお手本がここにある。しかし、宿を始めとした様々な負担が何度か続くと逼塞願(ひっそくねがい)なるものを藩に提出して緊縮財政の暮らしをしたという、つまり家の財政が復活するまで公の行事やお付き合いを控えさせてくださいというものであった。
 そうまでしても御用宿を続けたのは、商人として、人としての大きな名誉であったからと思われる。殿様が泊るからには、玄関となる御成門、御成座なる殿様専用の部屋、更には藩主専用のトイレなど持たねばならなかった。そして、床の間には趣味の良い掛け軸、お茶の時間には名だたるお茶碗、お殿様の目を引く茶道具類なども整えなくてはならず、おのずから家の当主は芸術品にも目が肥えてくるというものであった。
 記念館では、絵画・刀剣類・工芸品など約400点を所蔵しているが、それらの品々には、そうした目的のために集められたものが多いと考えられている。茶人として有名で不昧公(ふまいこう)と称される松江藩七代目松平治郷(はるさと)の好みのお茶碗を生み出していた楽山焼、布志名焼。漆器に優れた小島漆壺斎(しっこさい)、勝軍木庵(ぬるであん)などの作品が並ぶ様子は、松江藩のおひざ元であった松江市でもなかなか目にすることができないものである。
 第二展示室には、大社のお土産品として小さな大国様が付いた盃(布志名焼)が展示されているが、これは二杯分のお酒がつげるものだそうだ。左の写真を見てどうしてか分かりますか。お土産に買ってもらおうと工夫を凝らしたんですね。
 この手錢家には、藩からの通達を記録した「御用留(ごようとめ)」が天明のころからの120年分残っている。また、当主が日々の出来事を代々書き記した「萬日記(よろずにっき)」にいたっては1720年ごろから明治の初めまで約150年分が残されている。
この手錢家の庭のソテツは、樹齢250年以上であることが分かっている。それは、1750年頃に、このソテツが実を付けた時、その赤い実3粒を千家家に差し上げたと記されているからである。つぶさに書き残された資料は大社から日本のことまで、当時の暮らしを照らし出しており、さらには当時の商人たちが、いかに律儀に奉公し、地域を取りまとめていたかをうかがい知る貴重な宝物となっている。




蔵の美術館は周囲をぐるりと白壁がとりまいている

取り囲む美しい白壁を堪能したい

なつめは茶器のひとつで、抹茶を入れる木製漆塗りの蓋のある容器

五代漆壺斎(しっこさい)の棗(なつめ)

お土産用の盃で、盃にダイコク様の人形がつながっている

大国様のお土産盃、2杯分入る???

高さが50センチもある徳利や醸造していた「ちどりもろはく」の看板などが展示されている

造り酒屋だった頃の品々も展示されている