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大国主の正妻スセリヒメ

おおくにぬしのせいさいすせりひめ 

見る知る出雲エリア平成時代

 オオクニヌシが鎮座する出雲大社から、ほぼ真南へ10キロメートルの東神西(ひがしじんざい)という地域に、史跡 岩坪入口と刻まれた大きな石碑がある。さらにそこには、須勢理姫命生誕伝説の地、なめさの郷地名発祥の地とある。石碑から200メートルほど車を進めると、石で作られた小さな社があり、車を社の横に止めて降りると、鳥居には岩坪明神と記されている。


 折しも雨が降っており、傘を打つ雨音とは別に、ザーという水の音がする。その音のする鳥居の右方向のガードレールから下をのぞくと、谷川があって、そこに大きな穴が3つ開いていて、雨粒がいくつもの輪を描いている。その周りの平らな岩肌を水が無数の小さな飛沫を上げながら流れている。これかあ、「なめさ」地名発祥の滑らかな岩とは。
 出雲国風土記には、この地にスサノオの娘であるスセリヒメが住んでおり、そこへオオクニヌシが姫を恋い慕って妻問いに通ってきたと伝える。その時、スセリヒメの社の前に大きな岩があり、その表面が大変滑らかであった。これに感嘆し「滑磐石(なめしいわ)なるかも」と声を上げた。そんな由来で「なめさ」という地名になったのだった。
 このなめし石とされる岩は火山から噴出した大小の岩石からなる集塊岩らしい。その中でも脆い部分が水の流れで少しずつ浸食されて、今となっては大きな穴が穿たれのだと思われる。さて、出雲国風土記が記されたのは1300年も前、その頃から、一体どれほど大きくなったのだろう。当時の人は、その時この穴を見て、何を想ったのだろう。この水を飲み水にしていたのだろうか。水の量が多ければ、洗濯などしたのだろうか。それとも、貴重な命の源として祀り、そこにスセリヒメの神を見たのだろうか。
 岩坪明神の隣には金属製の社があり、扉を開けると中に岩坪の由来を記した紙と大ぶりのスタンプが納められており、由来の余白にアニメ顔のスセリヒメ記念スタンプを押して帰る事ができる。
 この岩坪明神は昔、那賣佐(なめさ)神社と呼ばれたとも言われるが、那賣佐神社は水害を避けたのか、今は近くの高倉山の中腹に祀られている。
 先の史跡 岩坪入口と刻まれた大きな石碑まで出て、左手に100メートルほど行った右手の山中になる。道路端の空き地に車を止めて降りると、こちらも石碑が立っているので分かりやすい。本殿までの石段を見上げるとすぐそこに鳥居が見えるが、それは行程の半分である。この石段は全部で230段、脚力に従って歩を進める。しんと静まった境内に到着し、本殿を左右から眺める。ここに祀られるのは、葦原醜男(あしはらのしこお)命と須勢理姫命などである。葦原醜男は古事記に登場するオオクニヌシの別名である。なぜここに葦原醜男命が祀られているのかは、江戸時代の国学者本居宣長が「古事記伝」で垂仁天皇の皇子で、生まれて後言葉を発しない本牟智和気(ほむぢわけ)王が出雲の地に来て言葉を発した時の事で、この岩坪に言及していることと関連するようである。
 この高倉山は山頂まで登ることができる。那賣佐神社から5分ほど竹の生い茂る山道を行くと眺望の良い山頂に到着する。ここに鎌倉時代に築城された神西城跡、本来の城の名は龍王山竹生城という勇ましい名前の城跡がある。頂上からは、神西湖が一望でき、その神西湖の向こうには日本海も見える。今は西に流れて遠く宍道湖に注ぐ斐伊川が、かつてはその本流は東に流れてこの日本海に注いでおり、神西湖から出雲大社にかけては大きな内海だったと言うから、豊かな漁があったと思われる。清らかな「なめさ」の水を大切にしながら、内海を行き交い暮らした人々がいたことだろう。オオクニヌシは、その内海を船に乗って妻問いに通って来たのかもしれない。




横を流れる谷川の音に包まれる鳥居と岩坪明神

石造りの小さな岩坪明神

大きな穴二つに水が溢れている

滑し磐石に空いた大きな穴

せせらぎの音が絶え間ないなめしいわ

滑し磐石の上の方に岩坪明神

西方向に神西湖が見え、その向こうに日本海も見える

那賣佐神社のある高倉山山頂からの眺望