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オオクニヌシとスクナビコナの住まい(1)

おおくにぬしとすくなびこなのすまい そのいち 

見る知る石見銀山エリア平成時代

 波の彼方より天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗ったスクナビコナが海を渡って来て、これを見つけたオオクニヌシが、スクナビコナと手を取り合って国作りがなされたと古事記は伝える。このアメノカガミノフネとは、ガガイモの実と言われている。長さ10センチほどで先の尖ったガガイモの実は二つに割れると、舟のような形になる。


 こうした物語からするとスクナビコナは手のひらに乗るほど小さかったと思われる。その、スクナビコナとオオクニヌシの両神が国作りをする時に住まいした場所があるという。
 大田市から国道9号線を浜田、温泉津方面に向かうと大田駅から約4キロメートルにある魚津集落である。静の窟のすぐ近くまで軽自動車ならなんとか行けるが、道がとても狭いので、運転に自信が無ければ止めた方が良い。先ほどの海の見える高台って感じのあたりは道が広いので、そこに止めて歩いた方が良いと地元の人のアドバイスである。約500メートルほど歩くが、斜面に広がる海辺の集落の中を歩くのも楽しい。石見特有の赤瓦の輝きの向こうに真っ青な日本海が広がる。家の前においた水瓶でメダカが飼われていたり、釣りの浮きが集められた水瓶もある。狭い路地で海が縦の長方形に切り取られていて、波の音が聞こえる。
 海に出ると、そこには堤防があって、その切れたところから左手を見やると、100メートルほど先に、少しだけ堤防に隠れてはいるが洞窟らしきものが見える。目の前の階段を浜に降りたら、打ち寄せる波と潮の香りに包まれた。洞窟に向かって進むと、洞窟の前に鳥居があって、立ち入り禁止の札がぶら下がっていた。持っていた一眼カメラの望遠をいっぱいにして、感度もグンとアップして奥の石碑らしいものなどを撮った。
 この洞窟は波浪の浸食作用によってできた奥行45m、高さ13mの大きさである。奥に見えた石碑には、万葉集(巻三)に詠まれている生石村主真人(おいしのすぐりのまひと)の「大汝少彦名のいましけむ 志都の石室は幾代経ぬらむ」と刻まれているらしい。洞窟の奥には小振りな朱の鳥居も見える。浜にいた老人に聞くと、若い頃は漁師をしていたという。この魚津には瀬があって、サザエやアワビが良く採れるので、カナギ漁をする漁師が多く居たが、いまはもう・・・と目をやった先には、カナギ漁に使われたと思われる小さな漁船が堤防の上にいくつも並んでいた。
 静の窟のことを聞くと、20年ほど前までは、静の窟の前で盆踊りをしていたが、今は高台で行うそうだ。資料によると静の窟の前には、滝の前千軒とう大集落があったというけれど、とてもこの斜面に囲まれた小さな集落の魚津とは思えず、その老人に疑問をぶつけてみると。滝の前千軒は静の窟のある山の後方(西側)にあった集落だという。それが大津波で根こそぎ流されたらしい。
一説に滝の前千軒に静間神社があったことがあるとされており、これが静の窟の前の集落と伝えられたのではないだろうか。また、そんなに大きな集落があったのは、きっと和鉄を生産する「たたら操業」をしていたのではないだろうか、と想像を大きくめぐらしてみる。大田市の海岸では、浜の砂に混じる砂鉄などで「たたら操業」をしていたことが知られている。現在の静間神社は、この静の窟から南に約500メールほど進んだところにある。
 静の窟のある魚津浜で、砂浜を目を凝らして探すと、親指ぐらいの大きさの鉄滓(てっさい)がいくつも落ちている。しばらくは石と同じように見えるので、じっくりと探して、一度見つけることができれば目が慣れて、あっ!ここにも、ここにも、といくつも見つける事ができる。顔を上げて静の窟の右手遠くに見える海辺の集落は五十猛集落である。五十猛はスサノオの息子であるイソタケルノミコトにちなむ地名である。




写真の左端に静の窟がある

日本海の潮騒が響く魚津浜

静の窟は一つの洞窟に二つの大きな穴がある

二つの穴がある静の窟

薄暗い洞窟の奥に立つ和歌の刻まれた石碑

洞窟内に立つ万葉歌碑

赤い石見瓦、白いサザエのフタ、黒ずんだたたらの鉄滓

拾い集めたもの、黒いのはたたらの鉄滓