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金のニワトリをあやつる、鷲尾猛!

きんのにわとりをあやつる、わしおのたける 

見る知る奥出雲エリア平成時代

 その昔、金の鶏を使って住民を苦しめていた鷲尾猛(わしおのたける)という邪神が住んでいた岩窟のある八重山(やえやま)、この邪神は霞霧に乗り神通力を発した。その八重山は入間(いるま)と呼ばれる場所にあるが、伝えによればその昔は入魔とも書いたと聞く。なんともおどろおどろしい物語がありそうである。


 国道54号線を松江から向かうと雲南市掛合の地に八重滝という名所があり、その八重滝の奥に八重山がある。国道54号線から入って、500メートルで八重滝入口があり、そこから八重山川沿いにさらに1500メートル進むと八重山神社の下に着く。駐車場に車を止め、石段を300段ほど上がることになる。途中に石の鳥居がある。昔はここを道が通っていたそうだが、道路改良で今の川沿いの平坦な道になったようである。この道は、江戸時代には松江市宍道(しんじ)と広島県尾道市をつなぐ街道であって、多くの人が行き交ったようで、石段から200メートルほど上流は堀出店と呼ばれ、街道の茶屋があったらしい。石段の下あたりにも茶屋があったというから、街道を旅する人々は、八重山神社にお参りして一時の休息を取ったのだと思われる。
 それほど厚い信仰のあった八重山神社は、最後の80段の石段を上り詰めると、目の前にあり、遷宮直後のため、真新しい建材が太陽の光を浴びて眩しいほどである。祭神はイザナミとアマテラス。その背後は大きな崖の壁となっている。宮を見上げると、ところどころに古い建材も使われていて、屋根を支える両脇の柱の上にある木鼻(きばな)の形はユーモラスな馬の顔となっている。他に鳥や波兎(なみうさぎ)なども見える。そうして、次に宮の背後の大きな崖を仰いで見ていると、宮の左上の方に「金鶏の岩屋」という額が掛かっている。岩肌と同じ灰色の額なので、何の気も無しに見ていれば見落とすかもしれないほどのものである。宮司によると、この額のあたりに岩屋があって、そこに邪神の鷲尾猛と金鶏が住んでいたという伝説があり、さらにその岩屋は八重山を貫いて、山の反対側にある竹之尾地区に口を開けており、その口から鷲尾猛の尾が見えていたので、昔は地名を猛之尾と呼んでいたという。
 この鷲尾猛が金鶏を使って悪さをすると、ヤマタノオロチ退治を完遂して救い出した稲田姫と出雲に向かう途中のスサノオの耳に入り、スサノオはヤマタノオロチに続いて鷲尾猛を退治しイザナミとアマテラスを奉った。以来、金鶏は村人に幸いをもたらした。という伝説である。がしかし、その悪さや幸いの具体像は一向に伝わってないようである。そして金鶏は存在するらしい。木彫でチャボのような姿ととされ金色に輝いているそうだ、社宝として今も大切にされており例大祭などの時に特別にお披露目されるそうである。
 また、社宝と呼んで良いものに異形の狛犬がある。石見銀山の有名な五百羅漢の像を彫った坪内平七郎利忠の17歳(正徳三年、1713年)の作で、材は石見銀山近くの福光石。狛犬ファンには見逃せない作品となっているらしく、遠方からこれを見に来る方があるそうだ。
 余談として、既に亡くなった作家の宇野千代さんがなんと「八重山の雪」という小説を残している。この八重山神社から600メートルほど上流で、英国の兵隊と日本人の女性が駆け落ちして隠れ住んでいたと言う物語。実際にあった話らしく、宇野さんもここへ来ており、雪の季節に登りたかったと回想されている。人々も神々も往来し物語が生まれた不思議な場所である。
一方で、八重山神社は牛馬の神様ともされており、近郷近在の農業や玉鋼を生産する「たたら製鉄」に牛馬が数多く使役された時代、東の縄久利神社(安来市広瀬町西比田)、西の八重山神社としても多いに栄えたようである。




まっすぐ登る石段の上に神域を守る朱色の随神門(ずいじんもん)

神域を守る随神門(ずいじんもん)

随神門の両側に石見(いわみ)地方の福光石で作られた異形の狛犬

異形の狛犬、阿吽(あうん)の阿

80段のまっすぐな石段の上、断崖絶壁の下に八重山神社

2014年の遷宮間もない八重山神社

江戸時代から牛馬の神様を祀っている象徴の牛の銅像

牛馬の神様の象徴