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神々が立ち去る磐座

かみがみがたちさるいわくら 

見る知る出雲エリア平成時代

 万九千社(まくせのやしろ)は、出雲の地で行われる神在祭に因む場所である。それも神々が寄り来るのではなく、去って行く場所としてよく知られているのである。万九千社のすぐ近くを流れる斐伊川(ひいかわ)は、スサノオがヤマタノオロチを退治した川の下流にあたり、退治の際にはヤマタノオロチの血で真っ赤になったと言われている。


 神々が出雲の地を去る神事を神等去出(からさで)神事というが、現在、斐伊川には、これに因んで神等去出大橋という大きな橋がかかっている。万九千神社(まんくせんじんじゃ)は、地元では万九千社と呼ばれ、神社は神等去出大橋の東側のたもとから続く住宅街の外れにあり、天井川である斐伊川の大きく高い土手がすぐ近くに見える。
 そこには二つの神社が同居していた。鳥居の両側に大きな石柱があり、左は立虫(たちむし)神社、右は万九千神社と彫られている。説明板には、その昔、斐伊川の中州にあった立虫神社が江戸時代始めに万九千神社の境内に遷ったとされている。万九千社には現在、本殿がなく、幣殿と呼ばれる建物の裏手に回ると、人の背よりも高い垣根の中に大きな磐座が鎮座している。垣根の隙間から磐座を仰ぎ見る。立虫神社が遷される前は、この万九千社は、この磐座だけの場所だったようである。もともと、この場所は出雲大社のほとりから広がる内海に面する湿地帯であったろうし、すぐ近くを流れる斐伊川も暴れ放題の川であって、神殿を建てても流されるのが落ちであったろうと想像できる。だから大きな磐座で祀られていたように思われる。一年に一回、旧暦10月の神在月の26日に執り行われる神等去出神事の時に、出雲に参集した八百万の神々が出雲の地を去る目印であったのだろうか。
 旧暦10月26日は、出雲大社などで神在月を過ごした神々が、万九千社で神議(かむはかり)の締めくくりと直会(なほらひ)を行い、明くる日の早朝に諸国へ旅立ちされる。
 では、出雲大社から神々はどのように万九千社にたどり着くのか。それは、旧暦10月17日早朝に宮司一人で行う秘儀とされ、竜蛇(りゅうじゃ)によって導かれて来る八百万の神々を迎え、神籬(ひもろぎ:神々の宿るとされる榊の木)に遷られた神々を万九千社へと案内する。この儀式は、出雲大社の稲佐の浜で竜蛇を迎える神迎え神事に良く似ている。
 神迎えの祝詞を奏上して、万九千社はお忌み入りとなるため、境内には、「お忌み入りの為 神在月17日から26日まで奏楽歌舞音曲一切中止致します 宮司」としたためた紙が貼り出されていた。
 さて、その最終日26日は境内に植木市や屋台が出て賑やかである。地元の人々は柿の木や柚子の木などの植木を万九千社で求めるの習わしである。しかし、夕方にはその喧噪もどこかえ消え失せて、静まり返った万九千社では、神等去出神事が厳かに執り行われる。氏子のみなさんと遠来からの参拝客が拝殿の中にある木製の鳥居の両脇に座り、宮司によって鳥居の前の戸が開けられると、その向こうにある壁の小さな扉も開けられており、幣殿裏手の磐座が正面に見える。宮司によって奏上される神去等出の祝詞に、「神名火山(かんなびやま)のふもと」という言葉が聞こえた。神名火山は万九千社から東南に約4キロメートル離れたところにある『出雲国風土記』に記された山、今の仏教山に比定されている。斐伊川土手に上がって望むと、万九千社の右手にあるどっしりと座った大きな山がそれである。伝承によると、その昔、神等去出神事はその仏教山のふもとで火をたいて送っていたという。
 祝詞などの儀式が終わると宮司が静々と扉が閉め、両手でおよそ1メートルの梅の木の枝を縦に構えて、扉を押し叩きながら「お立ち~、お立ち~、お立ち~」と三度唱える。ここから、神々は直会(なおらえ)を行うという。地元では、斐川平野の五穀、産物を食し、お酒を酌み交わすと云われている。神事の後は、神々の直会の邪魔にならないように、神職も参拝の人々も万九千社幣殿の扉を閉めて早々に立ち去るのである。




斐伊川の土手から見た万九千社

左手が万九千社、右手奥が仏教山

鳥居の左右に石柱、右に立虫神社、左が万九千神社と彫られている

正面は立虫神社、右側に万九千社幣殿

磐座は二重の垣根に囲まれた中にある

幣殿裏にある高くそびえる磐座

二つの扉が開けられて、奥に磐座が見える

日月の掲げられた神去等出の扉