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出雲の源流?

いずものげんりゅう? 

見る知る松江エリア平成時代

 出雲大社の古伝神嘗祭などで用いられている供物を調える火は、人が手で起こした神火だという。このため出雲大社の使いの者が、火を起こす道具である燧臼(ひきりうす)と燧杵(ひきりきね)を頂きに、ここ熊野大社に餅を持参して行われる神事がある。そこでは、持参した餅を前に、熊野大社の亀太夫と呼ばれる者が使いの者に対して口やかましく「色が悪い」、「角が丸く形が悪い」などと言い立てる。いわゆる悪態祭である。


 これを亀太夫神事(鑽火祭)と呼ぶ。熊野大社のある地元では、この神事を終えて燧臼と燧杵を出雲大社に持ち帰った神職が「いかに神事とは言え、つらいものがあります」と言ったことがあると伝えている。その真偽は定かではないが、それほど、出雲大社側に悪態をつく神事がなされる熊野大社には一体どのようないわれがあるのだろうか。

 古代において、出雲国造が新たに就任した時に朝廷に参上して天皇の前で奏上する出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)というものがあった。その祝詞には「出雲の国の青垣山の内に、下つ石ねに宮柱太知り立て、高天の原に千木高知ります、いざなきの日まな子、かぶろき熊野の大神、くしみけのの命、国作りましし大なもちの命二柱の神」とある。大国主とされる大穴持命よりも熊野の大神の名が先にあがっているである。このように熊野大社は出雲大社とならぶほどの古い由緒を持つ神社なのである。

 さて、亀太夫神事で出雲大社が持参する切り餅は、長さ約50センチ、幅約5センチの餅が2段重ねになっている。その餅に文句を言う人を亀太夫と呼ぶのだが、代々ある家が継いでいる役なのである。その理由は、熊野大社の前を流れる意宇川の上流の一番上にある家で、いつも源流の清らかな水を飲んでいるので、その言葉も清らかであるから、と地元では言われている。

 その意宇川の上流、若松谷を超えて天狗山に登ると磐座があるという。もともと熊野大社があった場所と伝わる。この天狗山は『出雲国風土記』の熊野山に比定されており、「謂はゆる熊野大神の社、坐す」と記されているのである。そしてまた、神賀詞にある加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろぎ くまののおおかみ くしみけののみこと)の、クシミケヌは食物の神と言われ、天狗山の反対側に位置する山狭神社にも、久志美気野(くしみけの)が祀られている。天狗山は飯梨川の源流の一つでもあることから、クシミケヌは安来も含めた意宇郡一帯に広く知られた食物神であったとも考えられている。

 現在の熊野大社は、祭神がスサノオノミコトである。本殿の右側に稲田神社、左側に伊邪那美神社となっている。スサノオとイナダヒメを祀ることから、縁結びの地としても知られるようになってきている。意宇川に面した石垣には、工事中に偶然できたと言われるハート形の石もある上に、境内には連理の椿や榊の木があって、近年ではカップルもちらほら見られるようになっている。

 熊野大社から意宇川を800メートルほど遡ると天狗山参道入口の看板があって、そこから奥へ約3キロメートルほど行くと駐車場のある登山口に至る。車を降りて険しい山道を30分ほど登ると意宇川の源があるので、湧き出る水で喉を潤すことができる。元気が出たら、さらに30分ほど登ると山頂近くにある磐座にたどり着く。
 そこは麓の里を潤す水の源であるが、大きな磐座の下に人の頭ほどの大きさの石がゴロゴロと広がっており、まるで磐座が毎日石を産んいるかのように見えることも、この磐座の特徴と言って良いだろう。毎年5月の第4日曜日、その大きな磐座を見上げる場所で元宮祭(もとみやさい)が行われている。祭の後は、参加した子どもや大人の数十人が、磐座より上にある山頂に陣取ってお弁当をほおばりながら、眼下に広がる松江の街や宍道湖や中海の景色を楽しむのである。

(出雲国造神賀詞は日本古典文学大系による)




意宇川(ゆうがわ)に架かる橋を渡ると鳥居がある

朱塗りの八雲橋を渡って境内となる

本殿に一列になって参進する宮司、神職、巫女

「おおみまつり」と呼ばれる秋の祭礼の日

茅葺の鑽火殿、四方の壁は檜の皮、縁は竹製

燧臼と燧杵の納められらた鑽火殿

鑽火祭で開けられた戸の奥に燧臼と燧杵がある

鑽火殿の燧臼には火を起こした跡が見える