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稲佐の浜

いなさのはま 

見る知る出雲エリア平成時代

 国譲り神話の舞台として有名なこの場所は、「伊那佐の小濱」(『古事記』)「五十田狭の小汀」(『日本書紀』)として出てくる。しかし、『出雲国風土記』には、稲佐の浜の記載は無い。『出雲国風土記』では、国引きを行った綱の跡が「薗の長濱」だとしており、稲佐の浜は地名としは見えないもののこの約7キロメートルに及ぶ薗の長濱に含まれる砂浜の北の端となる。日本の渚百選にも選ばれている美しい砂浜である。


 この稲佐の浜は、地元の人々にとっては子どもの頃に浜辺にそびえる弁天島のあたりでの楽しい海水浴の思い出が残っているだろう。また、長じてからは神在月に厳かな神迎え神事がかがり火に浮かび上がる浜として、その神事に参列した記憶もあるであろう。また、打ち寄せる波間に、ロマンチックなひと時を過ごすこともあったかもしれない場所である。
 海水浴の好きだったラフカディオ・ハーン、小泉八雲も明治23年ここで家族と16日間も逗留しており、古くから海水浴場として親しまれている。この稲佐の浜の北端に大きな養神保寿と大きく彫られた石碑が建っており、そこには明治21年に海水浴場として創設したことが刻まれている。きっかけは、江戸末期に長崎でオランダ人に医学を学び31歳で将軍家茂の侍医となった松本順である。彼は民西洋医学を学んでおり民間の衛生にも関心を持っていた。後に初代の陸軍軍医総監となる。日本に牛乳の飲用や海水浴を奨励した人物であり、明治15年に三重県伊勢市二見町の立石浜を日本最初の海水浴場に認定している。その松本順が明治21年に山陰地方を漫遊し稲佐の浜に立ち寄ったおりに海水浴場にと、地元の医師で千家国造家の御殿医だった石部元順に強くすすめたのである。
 当時の海水浴は「しおゆあみ」とか「塩湯治」と呼ばれており、「しおゆあみ」は海水を温めて温泉に入るようなものだったという。また、「塩湯治」は温泉湯治のように、海水につかったりあがったりを繰り返すだけだったようである。この塩湯治、稲佐の浜の北端でも行われていたという。
 ただ、小泉八雲は「ここの稲佐の浜は日本でも有数の海浜の一つで、海岸の旅館は、部屋の数も多いし、風通しはよし、すこぶる快適である。脱衣所には、泳いだあとの塩気を洗い落とすのに、湯と冷たい淡水の備えがあって、全く申分ない。」(『日本瞥見記上』の「第十一章 杵築雑記」 平井呈一訳 恒文社1975)と「泳いだ」としているので、日本でも瞬く間にレジャーとなっていたのではないだろうか。
 さて、この養神保寿の石碑から70メートルほど西に行ったところに柵で囲まれた黒くゴツゴツした岩がある。その昔は海の中にあった塩掻き島であるが、今は陸の岩のようになっている。この塩掻き島は、8月14日の出雲大社の神幸祭の時に、重要な場所となっている。この祭りは、夜に国造は社家に身を移し、禰宜(ねぎ)が執り行う行事となっている。国造が出雲大社を離れるので地元では「みにんげ行事」(身逃神事)と呼ばれている。この夜は境内の門という門は開け放たれ、深夜に大国主大神が御神幸になると、15日午前1時、禰宜がまず本殿に拝礼し、四軒屋に鎮座の湊社、赤塚にある赤人社を巡って、塩掻き島に至りて拝礼し塩を掻き取って本殿に戻ってくるのである。塩掻き島で掻きとった塩は15日の爪剥祭にお供えされるのである。
 この稲佐の浜には国譲り神話の聖地と言われる国譲りの屏風岩がある。これは養神保寿の記念碑を離れて東へ向かい、大社と日御碕を結ぶ県道29号線を渡り、民宿白砂の横を奥へ向かうと突き当たりにある。記念碑から200メートルほど東側である。
 この屏風のような岩の陰で、オオクニヌシと高天原からの使者であるタケミカヅチが国譲りの話し会いをしたというのである。出雲大社の古地図では、昔はこの辺りまで海となっており、この屏風岩の周囲にはハマヒサカキやハマビワなどの海岸生植物が見られるという。今ではこの大岩は樹木で覆われている。この樹木はマサキだそうで、神聖な場所に生えたので切るわけには行かなかったため大きく古木にまでなったのだろうといわれている。屏風岩は根元で繋がる二枚の岩となっており、その2枚の岩の間から生えている。今では岩を太陽や風雪から守るような役目を果たしている。
 この岩陰で・・・と見ていると、今のままの場所では、太陽も当たれば、稲佐の浜がわからも丸見えではないかと、神々の相談は岩の左手側だったのではないかと思ったりする。
 終わりに弁天島であるが、これも昔は海の中にある。今は弁天島と呼ばれているが古くは沖ノ御前と呼んだようである。「美しい弁天さんの魅力で全国の神様を呼び集めるために祀った。」というまことしやかな噂もあると言うが、ここに弁天さんが祀られるようになったのは16世紀初頭のことだったと伝えられている。
 この弁天島に向かって左側手前にはクジラ島と呼ばれた横たわる岩があった。今それは砂の中に埋もれており、いつだったか懐かしいクジラ島を掘り起こすイベントなどが楽しそうに開催されて、弁天島を背景にクジラに似た姿岩の後ろに人々が笑顔の老若男女が並ぶ写真が紹介されていた。


養神保寿の石碑(緯度経度:35.402893, 132.671309)
塩掻き島(緯度経度:35.402829, 132.670575)
国譲りの屏風岩(緯度経度:35.402391, 132.673145)
※緯度軽度をGoogleマップの検索窓に入れて検索すると場所を示してくれます。





稲佐の浜は美しい白砂が広がり、弁天島には近年参拝者が増えている

稲佐の浜に接してある弁天島

今では海辺からは茂みに囲まれて見えにくい長方形の石製記念碑

海水浴場創設の記念碑

今では茂みに囲まれた塩掻島

聖地である塩掻島

ここで国譲りの交渉が行われて出雲大社が生まれた

国譲り神話の聖地である屏風岩