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風に吹かれて雪のように降った白砂

かぜにふかれてゆきのようにふったしらすな 

見る知る松江エリア平成時代

「南は入海である。春は鯔魚(なよし:ボラ)、須受枳(すずき)、鎮仁(ちに:チヌ)、■鰕(えび)など大小さまざまな魚がいる。北は大海(日本海)である。 恵曇浜(えともはま)。広さは二里一百八十歩ある。」これは、『出雲国風土記』に載る秋鹿郡の海岸部や松江市鹿島町恵曇の様子である。その恵曇を訪ねたのは4月初旬、港では釣り人が細長いウキとしなやかな釣り竿を振って、陽光の下で、まさにチヌ釣りをしていた。


 風土記は続ける。「浦から人家までの間はまわりに石も木もなく、白い砂が積もっているようである。大風が吹くと、その砂はあるときは風に吹かれて雪のように降り、あるときにはそのまま流れ動いて蟻のように散り、桑や麻を覆ってしまう。」
 釣り人のいる防波堤から陸を見ると、今は白い砂浜はない。しかし、広さの二里一百八十歩は約1.4キロメートルにもなるので、当時は現在の恵曇の隣に位置する古浦海水浴場も恵曇浜と呼ばれていたようで、今もおよそ500メートルの砂浜を残しており、当時の様子を窺うことができる。今は地元の人たちによって保護されているハマヒルガオの咲く浜で、キス釣りなども盛んである。
 風土記は続く。「ここに盤壁を掘り抜いたところが二か所ある。その中を通じている川は、北に流れて大海に入る。川口から南方、田のほとりまでの間は、長さは一百八十歩、広さは一丈五尺、源は田の水である。」その頃の、河口がどのあたりか分からないが、釣り人の右手の方角に大きなアーチを描く橋が見える。
 この佐太川の河口から100メートルほど南のところに古浦砂丘遺跡があり、60体以上の人骨の他に奈良時代の土師器(はじき)、須恵器なども発掘され、人々の暮らしがあったことが分かっている。この発掘物については、近くの鹿島歴史民俗資料館で知ることができる。
 川をさらにおよそ700メートル遡ると当時、田んぼの水はけを良くするために岩を掘りって運河を作ったところがある。これは、風土記によれば、社部臣訓麻呂(こそべのおみ くにまろ)の先祖の波蘇(はそ)たちが掘り抜いたものとされる。1300年ほど前に運河開削の工事をしたものと思われる。
 またさらに1200メートルほど内陸に進むと川の東約200メートルのところに、スサノオの御子である磐坂日子命(イワサカヒコノミコト)を祀る恵曇神社がある。
 椿の花が参道を彩る恵曇(えとも)神社に参る。狛犬が4頭で迎えてくれる。しめ縄の素材が藁ではなく、海辺の神社で時々見られる漁網の繊維のようで、色はオレンジである。大社造りの本殿の右手の山に、地元では「蔵王さん」と呼ばれている磐座がある。説明書きには「イワサカヒコがこの岩に腰かけて地域の開拓を考えた。」とある。高さ1~2メートルの岩が3つ山の字のように並びで、さらにその背後にも3つほどの大岩がある。ここは、神が鎮まるために浄めた境域「磐境(いわさか)」に通じると理解されている。
 この磐座のある恵曇神社の周辺についても風土記は伝えている。恵曇の陂(つつみ)はでは昔から時々、人が溺れ死ぬ。また、池の底に陶器(すえもの)や大きな甕(かめ)、地面に敷き並べた瓦などがたくさんある、と。この湿地帯の水を流すために、この下流の磐を掘り抜いたのである。
ところでイワサカヒコは『出雲国風土記』にも登場する。「イワサカヒコが国巡りされた時に『ここは国が若く美しいところである。地形は画鞆(えとも)のようである。私の宮はここに作ることにしよう。』と言ったので恵伴(えとも)という。」とある。ここで注目されているが「宮を作ろう」と言った部分で、『出雲国風土記』で宮という表現は、他に杵築大社にしか現れない。当時の神社は社殿を持たず、岩や樹木などの自然物を社としたものと考えられているが、風土記の時代に、数少ない社殿を持った神社があったことも推察することができよう。

恵曇港(緯度経度:35.526021, 132.971397)
鹿島歴史民俗資料館(緯度経度:35.509019, 133.007275)
※緯度軽度をGoogleマップの検索窓に入れて検索すると場所を示してくれます。

■=魚へんに高




恵曇港の釣り人の背中と向う岸

釣り人の向うに今の恵曇浜

参道の石段に椿が散っている

椿の咲き誇る恵曇神社

オレンジのピンと張ったしめ縄

拝殿の色鮮やかなしめ縄

三つの岩の立ち姿が山の文字に似ている

神域を示す磐境