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オオクニヌシの最初の登場シーン

おおくにぬしのさいしょのとうじょうしーん 

見る知る安来エリア平成時代

 『古事記』・『日本書紀』に記された国譲り神話はとても有名であり、そこではオオクニヌシが皇孫に自ら国作りを行った地をそっくりそのまま譲る話であった。しかし、『出雲国風土記』では、オオクニヌシ(オオナモチ)は「八雲立つ出雲国は、青々した山を垣根としてめぐらせ、玉を置いて守る。」と言ったと記されており、それゆえに安来市に母里(もり)の地名があるとしている。


 これが、『出雲国風土記』においてオオクニヌシが最初に登場するシーンである。オオクニヌシが越(北陸地方)の八口(新潟県岩船郡関川村八ツ口と関係するとも考えられている)を平定して帰ってきたときに、長江山に来て言ったことが先の「出雲の国を守る」という宣言である。
 その宣言をした長江山へ行ってみた。場所は安来市伯太町赤屋という地域で、赤屋交流センターから県道105号線を約8キロメートル行くと島根県安来市と鳥取県日南町の境界に至る。車一台が通るほどの曲がりくねった道なので、車でも20分ほどかかる。その境界を示す道路標識の10メートルほど安来側に、左に入る地道がある。轍(わだち)があって車が入りそうであるが、車は県道の広いところに止めて歩いてみたい。道の山側の斜面を削り取った跡が点々とあり、山頂に近い場所の地質が砂地であることに驚く。この砂が日本の製鉄技法「たたら」使われる砂鉄を含むのである。轍のついた道を800メートルほど(15分程度)歩くと行き止まりになり、そこから左手に向かう山道を80メートルほど進むと、右手に東屋が見えてくる。ここがオオクニヌシが越から帰って来た場所、長江山である。
 東屋をくぐり抜けて向こう側に抜けると、オオクニヌシが座ったと伝わる稚児岩がある。この岩は、高さ20メートル、幅5メートルの直立したものである。下から見上げるとそんな感じの丸みをおびた岩である。ここから谷川までは70メートルほどあるらしい。岩は東を向いており、向かい側は山並みとなっているが、後方には、鳥取県にあって国内最大級の弥生集落遺跡と言われる妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)のある淀江(よどえ)町が遠くに見える。また、能義平野と中海、大根島、さらにその向こうの島根半島まで見える。その昔、ここは鳥取県日南町と安来市を結ぶ交通の要衝で、ところどころに山道が二つ平行に作られている場所があるのは、荷物を積んだ牛馬がすれ違うことができるようにした工夫した跡らしい。この峠を日南町のたたら製鉄で製造された鉄が運ばれたとも言われている。
 稚児岩の名称は、もともとはオオクニヌシの岩、父の岩(ちちのいわ)だったものが乳児岩、稚児岩と変化したという。上から見るとハートの形ともお尻の形とも見えるし、ふたつのおっぱいの形に見えなくもない。そんな形から名称が変化したのだろうか。また、この岩肌には赤児の足跡が付いているからという説もあって、岩の手前にある谷に下りる細い山道を30メートルほど下ると岩を見上げて見られる場所がある。赤児の足跡らしきものは木の葉もあってか定かではない。
 昔はこの岩の上に社があったいう。現在は、長江山の麓に祀られている玉神社にあたるといわれている。7キロメートルほど下った玉神社の境内にあった由緒書きを読むと、オオクニヌシの先の言葉の中にある「玉を置いて守る。」に由来するとのことである。
 もう一つ、「青々として山を垣根としてめぐらし」にちなむ場所もあった。赤屋交流センターから安来市内に向かって県道9号線を9キロメートルほど下ると、醤油や甘酒などの醸造販売を行うT醤油店の黒い建物がある。その背後の山並みが青垣山であり、さらに醤油店の前を通る道を東へ250メートルほど行った南側、青垣山の麓となる林の中に青垣大明神が鎮座しており、道路から参道の石段が垣間見える。青垣大明神に向かう道には柿が色づいていて、ちょうど秋の実りの時期であり、醤油店の周りも黄金色が広がって青垣山の緑が際立って、オオクニヌシが愛おしく思ったのであろう美しい風景があった。


この稚児岩に関してGoogleMapで検索できる緯度経度を示します。
稚児岩 35.263348, 133.290804
赤屋交流センター 35.296096, 133.260173
玉神社  35.285522, 133.271932
青垣大明神(青垣神社) 35.285522, 133.271932




岩からの眺めは山また山である

手前が稚児岩

鳥居を二つくぐって随身門がある

玉神社の参道

黄金色の稲穂の波の向こうに連なる山々

青垣山の山並み

民家の脇道を入った林の中にある

現在は青垣神社と呼ばれる