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スサノヲを呼び寄せた多賀明神

すさのををよびよせたたがみょうじん 

見る知る松江エリア平成時代

 本殿の屋根に木に彫られた顔の面が6つも取り付けられており、どこか彼方を見つめている。他では見られない景色をもった多賀神社。これらの面は祀られている六神の顔を彫ったものだという。それぞれに風格を感じさせる顔となっており、当然のことながら主祭神のスサノヲはどの面であろうと思ったりするのだが、残念ながらどれがどの神様という言い伝えはないとのことである。


 この多賀神社には他にも変わった景色がある。一つは参道の鳥居が川の水辺に面して建っており、参道は水の上にある感じなのだ。川はオロチ退治の神話で知られる斐伊川から宍道湖と流れ降り、それがさらに中海に向かう大橋川なのだ。この辺りで川幅は150メートルほどにもなり、大橋川の他に千酌川、剣先川というゆるやかに流れる2つの川の合流地点にもなっている。日本海が満潮になる時、境港から中海、大橋川へと日本海の海水が逆流して宍道湖方面へ流れていくのを見ることもできる。そんな川のほとりに鳥居がある。
 川に落ちないように鳥居をくぐって道路を渡り参道の石段を上がると多賀神社拝殿、後ろに回り本殿を見上げると切り妻屋根の破風の下に3つの神面が望める。そして裏にまわって見上げるとさらに3面が遠くを見つめているような感じ。面は口を閉じたもののあるが、開いたものは歯をくっと噛み結んだような形相である。
 この多賀神社、出雲地方の神在月の神等去出祭の行われる社として知られるようになり、遠方からの参拝者も増えてきたと聞く。しかしその神等去出祭は、出雲大社の神在祭に関わる神社とは異なり、この多賀神社から北西に10キロメートルほど離れた佐太神社に神々が集い、11月25日の夕刻に多賀神社に来訪して、ここで1泊して全国に帰っていくという言い伝えである。その日、多賀神社では猿田彦命が船を操って大橋川に出て、同乗している恵比寿さまに命じて魚取りをするというのである。この川は日本海とつながっており、時々チヌなども釣れる訳だから、恵比寿さまの鯛釣りもあったかもしれない、その光景を大勢の神々が山の上から見下ろして楽しむというのだから、賑やかなことである。
 その神々が魚取りを見る場所だったからであろうか、神社の北側に魚見塚と呼ばれる古墳があり、多賀神社の神等去出神事はその魚見塚古墳の上で川に向かって祈りが捧げられる。こうした神々の楽しそうなシーンが思い描けるにもかかわらず、それは神々の直会であり、26日の朝まで神社にはしめ縄が張られて宮司さえも立ち入り禁止となり、歌舞音曲などはもっての他の人の気配も失せて静まり返った「物忌み」となる。
 川から見る多賀神社は鳥居が目印となり、その南側に水辺に面して鎮守の森が茂った丘がある。この丘は雲陽誌によると月向山(げっこうさん)と呼び、由緒書によると、スサノヲが新羅の国から船に乗って多賀の地に来た時、月向山にあった多賀明神が「この岸に舟を留めて汝は岸に上がるべし、我は此処に在り」と言われたという。そこで俄かに嵐になって、留めた舟は土が覆いかぶさって山となり、木々も生え、その山を唐船山と名付け、今の多賀神社の宮を作ったものだそうだ。
 境内には、その多賀明神も祀られており、祭の時には祠の戸が開かれていて、中には何やら岩が鎮座していた。もとは本殿に向かって右側の丘になっている唐船山にあったものとのこと。祠は岩の上から被せるように作られたもののようで、岩の全容は知れない。

この多賀神社に関してGoogleMapで検索できる緯度経度を示します。
多賀神社 35.455673, 133.101595




大橋川の水面のきらめきに立つ鳥居

多賀神社の水辺の鳥居

本殿後ろ側の一番高いところの神面

屋根の下で遠くを見つめる神面

月光山、唐船山とも呼ばれる鎮守の森

対岸からの多賀神社は画面左のあたり

多賀明神に覆いかぶさる小さいな社

岩が鎮座する多賀明神