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烽のあった旅伏山

とぶひのあったたぶしさん 

見る知る出雲エリア平成時代

 『出雲国風土記』には5カ所の烽(とぶひ)があったと記されている。烽は緊急時に狼煙(のろし)を上げて急を伝える施設である。その一つ多夫志烽(たぶしのとぶひ)が出雲市の北に連なる山々の東端にある旅伏山(たぶしさん)にあったというので、登ってみることにした。標高456メートルの旅伏山に登山口はいくつかあるようだが、康国寺の北側奥にある中国自然歩道の登山口から行く。


 案内板によると、この登山口から旅伏山を越えて鼻高山に至り、平安時代末期には修験道の霊地として広く知られていた鰐淵寺に行くことができる。この登山道も修験の道だったかもしれないなどと思いながら、登り始めてまもなく金属の網の柵が張り巡らされていた。これは、鹿除けのもので、扉を開けて鹿のいる山へと入る。山道は丸木を使った階段が整備されているのだが、結構にきつい傾斜である。これがおよそ2キロメートルも続くので、ゆっくり1時間程度かけて登るつもりで行くのが良いだろう。
 木立の間から遠くに宍道湖や松江の烽である嵩山も見えたりする。かなり登ったところで木の鳥居が現れる。山頂付近にあるという都武自神社の鳥居であるから、もうすぐかと思うかもしれないが、まだ半分を越えた程度である。鳥居の横に立つ松の木は、一休みの木陰を提供するもの。さらに進むと次は石の鳥居があった。これをくぐると、まもなく都武自神社である。相当年季の入った木の鳥居が参道石段の下で道に向かって傾いており、鳥居の横で手を合わせて道を進むと、ほどなくパーっと開けた場所に出る。ここからのパノラマの景色はすばらしい。左右に大きく広がる出雲平野、その正面から斐伊川が流れ来て、眼下で大きく円弧を描いて左手方向へ曲がって行く。その先にあるはずの宍道湖は樹木に遮られているが大河が流れ込んでいるだろう。右手には国引き神話の綱の跡と伝わる園の長浜や日本海も見える。途中で追い越した子ども2人と母親、たぶんその子たちの祖父の4人が到着して、わーっと歓声を上げる。
 こんな場所だから山頂かと思ってしまうが、山頂はさらに西へ向かわないと行けない。この開けた平らな場所は、今は展望台となっているが、古代には烽を上げる役を担った人たちの館があったらしい。では烽はどこにあるのかというと、この展望台から都武自神社へ戻った場所という、それは登山道ではなく尾根伝いに行ったところである。今では、烽を訪ねて行く人もおらず道はないため、屋根付きの簡易休憩所の脇を通って東へと勘を頼りに木立の中を30〜40メートルほど進み、ゆるやかな斜面を登ると広い平場に出た。ここが烽のあった場所である。木立に覆われて周りの景色は見えないのが残念である。そのまま展望台から来た方から反対の、東へ向かい斜面を下ると、ちょうど都武自神社の本殿を見下ろす場所に出た。平場の縁を見て歩くと、北、東、南は山の斜面となっており、風が吹き上がってくるだろうと思われる。また、展望台のある西側に対しても、少し高くなっており、幾分の風を受けることが可能である。展望台や山頂よりは風を受けるのに好適地と思われた。烽として使うためには、斜面の木立を切り、風が通りやすくしていたのではないだろうか。
 再度、展望台まで戻って、ここからみえる他の烽を探してみると、ほぼ南正面に土椋烽(とくらのとぶひ)の大袋山、馬見(うまみ)烽の候補の一つ、浜山の南端も良く見えた。東側の木立が無ければ、松江の布自枳美(ふじきみ)烽の嵩山も見えることだろう。これらの烽に火煙が上がるのを想像してワクワクした。
 さて、せっかくここまできたので、近くにある伝説の岩を訪ねてみよう。その岩は都武自神社から東へ200メートル下ったところにしめ縄が施されてあった。その昔、鰐淵寺を開かれた智春上人(ちしゅんしょうにん)が信濃の国から来られたとき、三人の老翁が船で出迎え、鰐淵寺へと案内したという。その後、老翁は別所・唐川・旅伏の三所に飛び去り、唐川の智那尾権現は岩船となり、別所の白瀧権現は帆柱石となり、旅伏山の旅伏権現は帆形の石となったと伝えられている。そのためであろう、旅伏山の石は帆筵(ほむしろ)石と呼ばれている。
 帰りがけに都武自神社の参道を上がってみた。境内の本殿右側の木立の中に変わった像があった。恐る恐る近寄って良く見ると、どうも鼻の折れた天狗と見えた。旅伏山の麓の地区の国富村誌によると、「この旅伏山には古来参詣人の前に奇異の相が現われ、あるいは拝殿に参籠したときは天井一面に顔が現われたりした。人々はこれを天狗のしわざとして畏れていた。」という。ところが実はそれは天狗ではなく、七百六十五歳になる大古狸(ふるたぬき)であって、その大古狸退治に「鉄砲一挺、槍一本、犬一匹を用意して登山せよ。」と神託を得た奥村祐太郎が犬を連れて登山し、その犬が大古狸を噛み殺したという。村誌は明治19年頃の話として詳しく伝えているので、そうした話の名残かもしれない。
 おわりに都武自神社の祭神、速都武自和気命(はやつむじわけのみこと)のツムジは竜巻のことと思われ、烽の煙が天高く上昇する姿を「つむじ」と見立てたらしい。この旅伏山から見下ろす斐川平野にも都牟自神社が2社鎮座しており、それぞれに旅伏山を見上げている。
 

この嵩山に関してGoogleMapで検索できる緯度経度を示します。

旅伏山の登山口    35.431619,132.796295
都武自神社(旅伏山) 35.421650,132.784784
多夫志烽跡      35.421507,132.784061
帆筵岩        35.421241,132.785958
斐川の都牟自神社   35.403422,132.821951




つむじ神社の後ろの丘陵の頂きが平地となっている

多夫志烽の烽跡

たぶし山から真南にある大袋山が烽

中央の山頂が平らな土椋烽(とくらとぶひ)

鼻の折れた天狗の像

修験の名残か、天狗の像

神社の左後方に旅伏山が見えている

斐川の二つある都牟自神社の一つ