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国譲り、高天原からの使者

くにゆずり、たかまがはらからのししゃ 

見る知る出雲エリア平成時代

 波打ちぎわに夕日を背にした弁天島も美しい、ここ稲佐の浜は、『古事記』の「国譲り神話」において、オオクニヌシが高天原からの来臨したタケミカヅチに、国を譲る代わりに宮を建ててもらいたいと伝えたとされる場所である。そのタケミカヅチが稲佐の浜に近い因佐(いなさ)神社に祀られているという。


 稲佐の浜から北の方に数分で行ける山の麓に、どっしりとした構えの因佐神社はあった。これまで見たことのない神社建築で、本殿の幅と同じ幅の階段がついているのだ。この出雲にある神社とは異なる趣は、オオクニヌシなどの地上の国つ神ではなく、高天原の天つ神だからだろうか。
 タケミカヅチは『古事記』では、アメノトリフネとともに稲佐の浜に降り立ち、携えて来た十拳剣(とつかのつるぎ)を逆さに刺して、その切っ先に胡座(あぐら)をかいて座り、オオクニヌシに国譲りを迫る。剣の切っ先に座るという図が想像できないが緊迫した様子は伝わる。その交渉が行われたと伝わる場所もあって、因佐神社から稲佐の浜に帰る途中にある国譲りの屏風岩である。高さ3メートルほど、厚さ1メートルぐらいの板状の大岩が奥の茂みから突き出して来ている。出雲大社の古地図では、この岩のあたりまで海が描かれている。説明板には、この岩陰で国譲りの話し合いがされた、とある。
 タケミカヅチは、国生みをしたイザナミがカグツチという火の神を産み落としたため亡くなったことで、怒った夫のイザナギが十拳剣でカグツチの首を斬り落としてしまう。その時のカグツチの血から数柱の神々が誕生する中に、タケミカヅチがいた。そんなわけで剣と関係が深いののかもしれない。
 オオクニヌシは国譲りを迫るタケミカヅチに、息子のコトシロヌシに聞いてくれるように言う。そこで釣りに行っていたコトシロヌシに意見を聞くと国譲りを承諾した。他に意見を言うものはないかと聞かれたオオクニヌシが、タケミナカタの名をあげたところ、ちょうどそこへタケミナカタが現れ、千人が引いてやっと動くような大きな岩という意味の千引(ちびき)の石を持って来て、タケミカヅチに力比べを挑んだ。とあって、これが日本における相撲の起源の一つになっている。その力比べの伝説として、大社から日御碕に行く途中にある礫島(つぶてじま)にまつわる話が残っている。この島は稲佐の浜で力比べをした二神が大岩をどれほど遠くまで投げ飛ばせるかを競ったもので、ほぼ同じ力だったため、ひとつ所に岩が積み重なったという。礫島は海の中に高さ10メートルほど余りの大きな岩がいくつも積み重なった島である。
 これは、『古事記』には記載されていない伝承ではあるが、二神の力比べが想像できて面白い。さらに『古事記』にはタケミナカタがタケミカヅチに挑もうとタケミカヅチの手を取ったところ、手が氷となり次には剣となり、タケミナカタは恐れをなして退いた。とある。相撲というにはいささか趣向が異なるが、次にタケミカヅチがタケミナカタの手を取って、草でもつかむように握りつぶして放り投げたという。タケミナカタは長野県の諏訪まで逃げたが、タケミカヅチに捕まって、国譲りを承諾するのである。
 こうして、国譲りがオオクニヌシとその息子たちに了解されると、オオクニヌシは国譲りの条件として、宮を建ててくれるように言うので、多芸志(たぎし)の浜に神殿を建てた。そして、めでたい事に、櫛八玉(クシヤタマ)神が料理人を意味する膳夫(かしわで)となり、火を起こし、魚料理を作って献上するシーンが続く。出雲には、このシーンを彷彿とさせる場所がある。それは一畑電鉄の武志駅の近くにある鹿島神社である。ここにはタケミカヅチが祀られ、近くの斐伊川河川敷には、明治44年に武志神社に合祀されたクシヤタマを祀った膳夫(かしわで)神社跡がある。『雲陽誌』の神門郡武志の説明に、『古事記』によれば,出雲国多芸志之小浜において天の御舎を造った水戸神の孫、櫛八玉神膳夫が神の御饗(みあえ)を献じたという。膳夫明神の社があるのはそのためである、と書かれている。多芸志之小浜は武志であるよとクローズアップしているのである。現在の斐伊川は『出雲国風土記』が記された奈良時代には、東の宍道湖ではなく西の神門(かんど)水海に流れていた。その水海に流れ出る河口のような場所だったとも想像でき、多芸志之小浜という風景も描けるような感じである。
 さて、その料理方法はというと、クシヤタマは、まず鵜になって海中に潜り、海底の泥で器を作り、海藻の茎で作った火きり臼と火きり杵で火を起こして、海人の釣ったスズキなどを料理したと伝わる。こうしたことからクシヤタマは料理と同時に陶芸の神様とも言われている。この饗宴によって国譲りが終わりタケミカヅチは高天原に帰って行った。
 神社の境内にある解説板に、神社から南に1キロメートルほどのところに鹿島の要石なるものがあるというので行ってみると、その高さは150センチほどであった。地域の方々によって立てられた看板には、「ゆるぐとも よもやぬけじの かなめいし かしまのかみの あらんかぎりは」と書かれ、地震、洪水の鎮神として信仰されているそうだ。
 全国にある鹿島神社の総本社は茨城県にある鹿島神宮である。祭神はタケミカヅチを祀っており、その境内に要石があって、地震を起こす鯰(なまず)を押さえつけているそうだ。

 

この「国譲り、高天原からの使者」に関してGoogleMapで検索できる緯度経度を示します。

因佐神社      35.403611, 132.672271
国譲りの屏風岩   35.402448, 132.673140
礫島        35.415845, 132.638556 
鹿島神社      35.390517, 132.775221
膳夫神社跡     35.390287, 132.778515
鹿島の要石     35.380724, 132.774940
鹿島神宮      35.968777, 140.631532




どっしりとした外観を見せる

因佐神社

高さ3メートルほどの薄茶色の砂岩のようである

国譲りの屏風岩

近くの漁船よりずっと大きな岩の群

遠くに大社の町が見える礫島

鳥居の前にある社名を刻んだ大きな石が印象的である

武志にある鹿島神社