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炊きたてで占い神事

たきたてでうらないしんじ 

見る知る安来エリア平成時代

出雲地方の東、中海の南に面する安来市の穀倉地帯、能義平野。空から冷たい雨のそぼ降る3月10日。数羽のコハクチョウが水を張った田んぼに浮いている。若い白鳥が多いようだから、きっと北帰行の最終組なのだろう。この白鳥の飛来する田んぼのお米は、湖北白鳥米としてブランド化されている。そんな能義平野一帯の今年の米の出来を占う神事が行われるというので、平野の南にある飯生(いなり)にやって来た。


大国魂命(オオクニミタマノミコト)が天下った時に、ここで食事を取ったので、飯成(いいなし)という。続けて神亀三年(西暦726年)に字を飯梨と改めた、と『出雲国風土記』にある。飯生は古くは「いいなし」と呼んでいたという。その安来市飯生町にオオクニミタマ神を祀る意多伎(おたき)神社が、意多伎山と呼ばれる丘陵地の頂上に鎮座している。昼過ぎ、道路に面した鳥居より高く掲げられた祭りの旗が雨を含んでしな垂れていた。
神社に上がると、拝殿の中には数人の神職が見え、時折傘をさしたお参りの人がやってくる。拝礼、拍手をし、拝殿の左脇で玉串料の金封を奉納すると、土器(かわらけ)が渡されて、お神酒がすすめられる。そのお神酒をいただいた人々は、本殿の右手にある赤い鳥居をくぐって稲荷神社に参拝して、そこから本殿を一回りし末社を巡って参拝を終わるようであった。稲荷神社には狐の像がいくつもならんでいたが、その稲荷神社の扁額を覗き込んでみたら、扁額の後に古びた板が隠れており、墨書で食師社と書かれていた。これを「みけのやしろ」と読むらしい。
地域では、意多伎神社の意多伎(おたき)は於多倍(おたべ)であって、食物を意味すると伝わっている。また、先の食師社は倉稲魂命を祀り、大國魂命に御膳をさしあげられた神とされているそうだ。そして社の周辺の田は稲積(いなづみ)と呼ばれ、他にも飯盛(いいもり)、采盛(さいもり)などの地名もあって、それらはみな神の食事を物語るものという。
午後1時ごろになると、雨の中、何人かの女子が母親と思われる大人たちと、境内脇の建物に入って行った。そのころには神職も10人あまりに増えており、祭りの雰囲気が増してきた。雨に備えてテントを立て、その4本の足に忌み竹を備え付け、3つの釜や薪などを用意していた。そんな中、氏子の中から2人が呼ばれ、黒い立ち烏帽子を被って拝殿に上がると、続いて巫女の姿になった先ほどの中学生たちも拝殿に上がって並んだ。開け放たれた拝殿の正面奥に本殿への階段が見えている。
 まず、宮司が本殿に上がり、しばらくして中から灯明を携えて降りて来て、先ほどの2人に渡すと、2人はその灯明から手にしたロウソクに火を移し、消えないように手のひらで覆いながら拝殿から降りて、3つの釜に手際よく火を灯して行った。三つの釜には、向かって右が白米、真ん中が水(湯立用)、左側が白米と小豆が入っている。中でも右の釜には、占いのための小さな竹管(たけくだ)が3本入れられているのだ。
3つの釜の火が勢いよく燃え盛る。相変わらず雨が降っているので火が消えないように2人の氏子はせわしなく動き回っているが、周りの氏子は傘を添えるぐらいしかできず、心配そうに眺めているだけだ。
そうするうちに、拝殿では、笛や太鼓の音ともに巫女たちによって浦安の舞が演じられ、意多伎神社がにわかに華やいだ。巫女の家族が我が子の舞う姿を写真に撮っている。
そうした楽の音も止んで、火が燃え上がってから20分ぐらいもしただろうか、宮司が「そろそろ良いじゃなかろうか」と言うと、白ご飯の釜の蓋が取られ、もくもくと上がる湯気の中の炊きあがりが確認され、大丈夫と伝わる。
すると宮司は、祭りの前に境内の木の枝から削り出された長い箸で、釜の中の探り、「わせー!」と大声を上げて竹管をつまみ出して三方と呼ばれる台の上に置く。続けて「なかて!」「おくて!」と大きな声とともに、釜から竹管を取り上げ、三方に置く。ご飯粒の付いた竹管に、早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)と黒い文字が見える。
その竹管を乗せた三方は、宮司と共に拝殿から本殿へと消えて行った。それから、しばらくすると、宮司が1枚の紙を手にして本殿より降りて来て、その紙を拝殿の扉にあった昨年の占いの紙の上に貼ったのである。そこには「平成三十一年御託宣 早稲六分七厘 中稲七分○厘 晩稲六分八厘」と墨書されていた。竹筒の中に入ったお米の数で占われると聞いた。本殿の中で、竹管の中の米の分量が図られた結果なのだろう。豊作はどのあたりのことを言うのか聞きそびれてしまった。炊き上がったご飯や赤飯は、本殿、食師社、末社に献供(けんく)され、続いて神職、氏子、参拝者などが小さなおにぎりにしたご飯を口にしていた。着替え終わった巫女役の女子たちも口々に「美味しい」と言いながら食べていた。こうして五穀豊穣、厄災消除、家内安全を祈願するお祭りが終わった。昔は、終日神楽が舞われ、前夜祭もあって若者による演芸会もあって大いに賑わったとのことである。なお、かつてこの神事は旧暦2月初午の日に行われていた。




拝殿の前で3つの釜を囲む神職や氏子のみなさん

祭りの日は、あいにくの雨

雨の中で、懸命に火が消えないようにしている人

火を管理する炊(か)き奉仕者

長さ15センチ、直径4センチぐらいの竹筒にご飯粒がついている

炊き上がった竹管

紙には、わせろくぶななりん、などと墨で書いてある

扉に貼られた占い結果