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戦国最強の山城と評判

せんごくさいきょうのやまじろとひょうばん 

見る知る安来エリア平成時代

滑稽なドジョウすくい踊りで知られる安来節。その安来に富田という城下町がある。毎年鎧兜に身を包んだ大勢の尼子武者隊が城下町を行列する。尼子は、山口の大内義隆、広島の毛利元就と中国地方の覇を競った戦国時代の大大名であって、尼子十旗と呼ばれた勇壮な戦国武士達が活躍した。中でも「我に七難八苦を与えたまえ」の名言で、武士の鏡とされた山中鹿助(やまなかしかのすけ)は、今もその名が知られる勇者である。


尼子武者隊が勢ぞろいするのは、毎年春のひな祭りの時、尼子の本拠地であった月山富田城(がっさんとだじょう)の北麓を流れる飯梨川(旧名:富田川)にある三日月公園である。その土手の上に広瀬絣センターや安来市立歴史資料館があり、そこで手にした「まちあるきマップ」の月山富田城の説明書きを読むと、「難攻不落の要塞城と言われています。同城は菅谷口、御子守口、塩谷口の3方面からしか攻められず、城内郭の下段が落ちても、中段の山中御殿で防ぎ、そこが落ちても、主山の月山に登って防ぎ、頂上には堀を築き、守りを固め、一度も落城しなかった天下の名城として知られています。」とあった。頂上の本丸まで、何重にも防御があるようだ。また、その表紙には古い月山富田城の絵図が印刷されていたが、そこには富田月山城之圖とあった。
要塞城のある月山は、標高わずか191メートルほどである。広瀬絣センターの左脇から、本丸へ向かう遊歩道が整備されていた。この広瀬絣センターの裏の高台は、千畳平(せんじょうなり)と呼ばれる曲輪(くるわ)で、その下に居るのだから、戦時であれば上から弓矢や鉄砲玉の雨が降るだろうと思われた。さらに進むと左手の上にも段がある。道を登って行って上から見下ろすと、馬乗馬場(うまのりばば)と呼ばれる曲輪は、広さは長さ約120メートル、幅が約10〜20メートルである。曲輪は、戦時に多くの兵を収容できる広場のことで、山を削って造成されている。また、曲輪の側面にあたる斜面も敵に攻められにくくするために削って急斜面にしてある。山城にはこうした曲輪たくさん作られて、城の守りを固めているのだ。曲輪は、江戸時代になって平地の城の時代をむかえると二の丸、三の丸などと呼ばれるようになる。
千畳平には桜の木がたくさんあって、花見の名所となっている。ここから少し上にある太鼓壇(たいこだん)に向かうと、大きな武者の銅像が立っている。鹿の角がニョキっと生えた兜をかぶり、胸の前で合掌する山中鹿介の像である。「我に七難八苦を与えたまえ」と、この月山から西に望む三笠山に昇る月に向かって祈ったと伝わっており、きっとその姿なのだろう。
さらに進むと、建物のある花の壇に着く。発掘調査によって16世紀末から17世紀初頭にあったと推測される掘っ立て建物が復元されている。この建物の裏側には堀切(ほりきり)によって隣の山中御殿平と区切られていて、人工的に掘り込まれた大きな溝となっている。覗き込んでみると、これで敵を足止めできそうだ。堀切は、山城防御の基本といわれるもので山城には随所に見られる。平時は堀切の上に橋が架けられていたというから、山中御殿平とは容易につながっていた。
山中御殿平はかなり広く、幅50メートル、奥行きが150メートルぐらいもありそうである。「菅谷口、御子守口、塩谷口の3方面からしか攻められず」の3つの口からの道は、すべてこの山中御殿平へと上がってくるのだが、攻め上がった敵は山中御殿平から迎え撃ちされるのである。
ここから山頂へ、さらに七曲りと呼ばれる細く険しいつづら折りの狭い道を登らねばならない。実際は12曲りあって11曲りの脇に山吹井戸があった。こんな山頂に近いところにわずかであるが水が湧いており、籠城戦に備えて重要なことだっただろう。
山頂に出ると、なんとも眺めが良い。城内はもとより飯梨川までも見える。尼子の時代には侵攻してくる敵を見張るために、この山の木など切り払われていただろう。毛利が攻めて来た時には、飯梨川を挟んだ向かいの高い山、京羅木山(標高473メートル)に陣を張って、その右手に少し低く見える山にも勝山城という城塞を築いたといわれており、飯梨川を挟んで対峙していたことがわかる。勝山城からは富田城が見下ろせたようである。木の無い山城の尼子軍の動きは丸見えだっただろう。
この山頂には、三の丸、二の丸、本丸があり、低いけれども立派な石垣が組まれているが、発掘調査から尼子時代に石垣は無かったというのが通説のようだ。また、建物も瓦を葺くようなものはなく、お城というより、砦のようなものだったと思われる。
この城を攻めあぐねた毛利は、最後は兵糧攻めで尼子を下したのである。辛くも落ち延びた鹿助達は、その後も月山富田城の奪還の戦いを続けた。山頂には山中鹿助の記念碑もあって、その向こうには飯梨川の果てに青い中海が見える。「ツヅク タンボ ノ ソノ サキ ハ、 ヒロイ、ヒロイ ウミ ダッタ。 悒ぁ悗 ウミ ダッタ。 」これは、サイタ サイタ サクラガ サイタの一文で知られるサクラ読本(戦時中の国定教科書)の山ノ上という読み方練習の一節である。このサクラ読本を編纂したのは、富田城の南の谷に住んでいて、五歳の時に祖父に連れられて月山に登った井上赳(たけし)である。彼は、そのサクラ読本の中に、山中鹿助の物語「三日月の影」も書いている。

この 月山富田城 に関してGoogleMapで検索できる緯度経度を示します。

月山富田城跡      35.360792, 133.185234
安来市立歴史資料館   35.368124, 133.180239
勝山城跡        35.383092, 133.178695
京羅木山        35.387143, 133.164226




鹿の角を模した兜をかぶり両手を合唱して祈る銅像

山中鹿助の銅像

広い山中御殿の向こうの小高い山の上に本丸がある

山中御殿平の上に本丸

きちっと2段に積み上げられた石垣

三の丸の石垣

眼下のいいなし川の向こう見える山並みの高み

正面の高い山が京羅木山