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海から遠く離れているのに海苔石?

うみからとおくはなれているのにのりいし? 

見る知る出雲エリア平成時代

海から遠く離れているのにもかかわらず、岩に海苔が生える伝説があるという。場所は、出雲市野石谷(のいしだに)というところである。出かけてみると、庄屋垣という屋号の家で、家の方が農作業の合間らしかったので、海苔の生える岩というものを探して来たのだと伝えると、家の裏に案内してもらい見せてもらった。家の裏手は柿畑で、人の背丈ほど高くなった場所に、岩がいくつか積み重なったものだった。


なんとこの海苔石は古墳らしい。発掘調査は行われていないので詳細は不明とのことだった。そして続けて言われるには、家の前を流れる川のほとりに鳥居があったと伝わっているとのこと。この海苔石の北へおよそ500メートル行くと、能呂志神社があるだが、その本宮だったのではないかと言われているそうだ。能呂志神社は『出雲国風土記』に載る乃利斯(のりし)社と考えられている。
さて、日本海から約2キロメートルも内陸にある海苔石に海苔は生えるのだろうか。そんなことはないだろうと思いつつも、意を決して「この石に海苔は生えるんですか。」と聞いたら、「そんなもの生えないけれどね。大昔は宍道湖も海だったらしいから、この辺りまで海水が来ていたとしたら、海苔も生えたのかもしれないと思うけれど、この場所はだいぶん高いからね。海水が近くまで来たとは考えられなくて、どうして、海苔石なんて名前が付いているのか不思議でしょうがない。」とのことだった。
確かに、古代に宍道湖が広がっていたと思われる現在の船川あたりまでは、それでも2キロメートルほどはありそうだ。「日本海側には海苔が良く採れるところはあるんですか」と聞くと、「北へまっすぐと四方が池(よほろがいけ)があって、さらに山を越えて行くと、三津の海岸に出るよ。そこはよく海苔が採れる。」とのことだった。続けて「その海苔が良く採れるところの住人が、ここへ移り住んだので、故郷を懐かしんで、この石に海苔石の名前を付けたのかもしれない」と。さらに続けて「そう思って、現地へ行ってみたこともある。そしたら今は人が住んで居ないが、石垣の跡があって、人が住んでいたようなんだが、それを知っているという人がいない。」
そんなこと聞いたら、ぜひ行って見なければ。突然の来訪者に仕事の合間とはいえ、いろいろ話を聞かせてもらって、ありがたかった。お礼を言って近くの能呂志神社へ向かった。神社は田んぼの脇にあって遠くから鳥居が見えていた。道路の側には家が一軒あって、その裏にあたるような場所である。
鳥居をくぐると静まった境内が広がっていた。高く伸びた杉の大木が数本あって、古くからの神社と感じた。後から調べてみると、祭神は天照大神・伊弉諾尊・伊弉册尊・素盞嗚尊・瓊々杵尊・児屋根尊の五柱となっており、少なくとも現在では地元に因む神様ではないようだった。
さて後日、話で聞いた石垣の跡を訪ねてみた。三津漁港から日本海側を車で行くと、行き止まりに駐車場があった。そこからは歩きである。足元は洗濯岩の続く海岸であった。三津漁港の東に、小伊津の洗濯岩と呼ばれる1500万年前に海底で形成された砂泥互層の地質が隆起してできた地層が広がっているが、それと同様な地層だった。岩場にはところどころ人が居た。海側を向いた釣り人なのだが、人がいるので少し安心して進める。そうして1キロメートルほど歩くと岩場が途切れて、小石の浜があり、そこへ小川が流れ込んでいた。川の両側は少しだけ開けていて、昔に人が住んでいて家があったかもしれないと思った。平らな草地となっていて、石垣らしいものは見当たらない。探してうろついていると、足元の草むらの中に2、3段に積まれた石垣が現れた。幅は2メートル程度である。家があったのか。しかし、顔を上げると山が迫っており、その山は急峻で、上の方に見える岩が、いつ転がり落ちて来ても不思議は無いような場所である。危なっかしくてしょうがない。こんなところに人が住んでいたのだろうかと疑いたくなるのである。それ以上、石垣はないように思い、引き上げようと、川に降りてチョロチョロと流れている細い川筋を避けながら進んでいた時、ふと立ち止まって横を見上げると。なんと私の背丈ほどに積まれた石垣が目の前にあって、川に沿って海へと続いていた。驚いた。伝承通りここに人が住んでいたのだろうか。
家に帰って山陰の釣り場総覧で三津を開くと、私が行った場所は、野石土(のしど)という場所であった。海苔石のあった野石谷(のいしだに)と同様の字である。『出雲国風土記』の研究者によると、都で発見された木簡から、七世紀末頃に乃呂志里があったという。その想定される範囲は、その想定される日本海側の範囲は、今の三津から釜浦あたりまでではないかと。そして、そこから宍道湖側までも含んでいたと考えらている。
『出雲国風土記』には、楯縫郡の海岸地名に、能呂志島、能呂志浜、そして紫菜磯(のりしのいそ)があり、さらに海の産物で、紫菜(のり)は楯縫郡が最もまさっている。としており、この地域が海苔の産地として知られていたことが分かる。今でも三津から釜浦の先の十六島(うっぷるい)まで海苔が良く採れる場所として有名である。産物が地名の起源になっているのかもしれない。その産物の恵みに感謝した痕跡が海苔石であり、能呂志神社なのではないだろうか。
海岸の野石土に人が住んでいたのかどうか、海岸線を歩いた伊能忠敬の地図にも地名はなく、近くでも聞いてみたが、わからないままである。

この海から遠く離れているのに海苔石?、に関してGoogleMapで検索できる緯度経度を示します。

能呂志神社   35.469551, 132.815295
海苔石     35.466021, 132.818235
野石土     35.492970, 132.809087
十六島海苔島  35.466851, 132.732875




厚さ30センチぐらいの板状の石

海苔石

お米のできる平地の奥、谷の入り口にある

能呂志神社

30から40センチぐらいの石が積まれている

野石土の川に見られた石垣

海苔が岩から一枚の新聞紙が剥がされるような感じ

岩で乾いた海苔を剥ぎ取る(十六島にて)