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神門水海は湿地から新田へ

かんどのみずうみはしっちからしんでんへ 

見る知る出雲エリア平成時代

出雲大社の東隣にそびえる弥山、標高506メートル。頂上から大社はもちろん出雲平野が広々と見渡せる。寛永15年(1638)頃、ここから足元の菱根地域を見下ろした人物、三木与兵衛がいた。湿地帯であった菱根地域に堀貫川を掘って灌漑し、江田、八島、浜、入南、菱根の五ヶ村と田畑を生み出した中心人物である。しかし、その目には、寛永10年(1633)の大洪水で埋まってしまった堀貫川が映っていただろう。


菱根地域とは、出雲大社の東側にある山、弥山の南の麓あたり、現在ある島根ワイナリーの周辺の地域を指している。もともとこの地域には菱根池という池があったという。『出雲国風土記』の書かれた頃、神門水海(かんどのみずうみ)という周囲およそ18キロに及ぶ汽水湖があった。それが、この菱根あたりから、今では野球場など運動公園となっている浜山を半分包み囲み、7キロメートルあまり南にある神西湖のあたりまで広がっていた。時代が降って江戸時代の始め頃になると、その広い神門水海は、ほとんど湿地のようになっていたようだ。
江戸時代をむかえ、藩として所領が広くなり、政情も安定すると、米の増産のため一気に土地の開拓や改良が進み始めたのである。
ここ出雲平野では、地元でとても有名な大梶七兵衛が、日本海に面する荒木浜に松の植林を行い、続いて斐伊川から大社まで延長11キロメートルに及ぶ高瀬川を開削した。そして、斐伊川が洪水を起こして東の宍道湖に流れ始めたのを捉えて、若狭土手を作り宍道湖への流れを固定する大規模な工事も行われた。これらが行われたのは、みな江戸前期である。中でも三木与兵衛の仕事はそれらに先立って行われた。お手本になる大工事も無く、湿地の水を抜くために掘った川、堀貫川が洪水で埋まるなど、苦難の連続だったと思われる。
そんな中、新たな川を作ろうと弥山に登ったと言い伝えられている。そこから、南西の眼下に見える乙見(おとみ)山を切り開く決断をして実行したのである。乙見山とは、今の古代出雲歴史博物館の正面にある小山の連なりで、そこを通り抜けている堀川こそが新たに菱根から大社湾まで、三木与兵衛が掘り通した川であった。乙見山の切り開き工事は、寛永17年(1640)に着工したが、三木与兵衛は完成を間近にした寛永20年(1643)に49歳で亡くなった。その後息子の加兵衛が意志を引き継ぎ、まもなく大工事を完成させたという。それによって新田5ケ村で5千5百石を得るに至ったと伝わっている。
出雲市立遥堪小学校の校庭の南川に堀川が流れており、川に沿った杵築街道の道に面して水田や小学校を眺めるように、大きな自然石の頌徳碑が建っている。三木与兵衛翁の菱根新田開拓の遺徳を称え、遥堪・菱根・入南・江田・浜などの関係者により、昭和52年に建立されたものである。そこには、「今では水田は275ヘクタールに拡大され、米収も140トン(2万2千俵)を得るほか 生活排水、山瀬の水も円滑に処理され沿線1万数千人の快適な生活が保証されている」と記されている。毎年8月に供養祭が行われているという。

神門水海は湿地から新田へ、に関してGoogleMapで検索できる緯度経度を示します。

三木与兵衛翁頌徳碑   35.39162472081175, 132.71795087362622
弥山          35.40536699807626, 132.70335184945708
乙見山         35.39603381909578, 132.69079618964327
堀川          35.39299240902084, 132.70725422371723
浜山          35.37914827971318, 132.70673923954425
高瀬川の源流      35.35472884651153, 132.78610312246636




みせんのやまが右に見え、麓を流れる堀川

現在の堀川、右奥は弥山

写真の真ん中に緑の島のように見えるのが浜山

弥山から麓の左下が菱根、中央が浜山

幅2メートルぐらい、高さ3メートルぐらいの大きな石碑

三木与兵衛翁頌徳碑

乙見山を突き抜けて大社の街中を通り抜け大社湾に注ぐ堀川

細長い乙見山を開削した中央が堀川