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木綿街道のごはん屋棉の花

もめんかいどうごはんやめんのはな 

見る食べる出雲エリア平成時代

平田の木綿街道に、その昔、「外科御免屋敷」とも呼ばれた古い建物があった。長崎医家という江戸時代から明治時代に医院だったところだそうだ。そうした古い建物を平成18年に改修して、出雲市立の観光案内所「木綿街道交流館」としてオープンしたものという。道路に面した表は海鼠壁(なまこかべ)が新しい雰囲気であるが、格子の引き戸を開けて中に入ると、そこにはごはん屋棉の花があって、柱や梁は黒光りしていた。


庭に面した奥の座敷の縁側に丸い小さなチャブ台があって、そこで棉の花定食をいただいた。庭は白い砂が敷かれ、縁側に上がる踏石は四角く大きな来待石で、ノミの跡が荒々しい石だった。
定食は、ひとつひとつが丁寧に手作りされた小さなおかずが数種類きれいに盛り合わせられている。この日の内容は、鶏のつくねハンバーグ、人参やゴボウ、高野豆腐などを煮上げたもの、サツマイモのレモン煮、菜の花のお浸し、味の染みた煮卵、紫玉ねぎの酢漬け等である。
魚のおかずも選べて、魚は季節によって、秋刀魚(サンマ)の甘露煮や鮭やアジの南蛮漬けなどに変わるそうだ。白ご飯の上には、ゴマやノリといっしょに乗っているものがある。出雲生姜(しょうが)味噌だそうだ。これは、木綿街道にある來間生姜糖本舗が作る生姜シロップの製造時に出る地元名産の出西(しゅっさい)生姜の絞り粕を、さらに煮込んで自家製の味噌を合わせた棉の花オリジナルである。手の込んだこの薬味だけでごはん全部が食べられそう。
この棉の花定食770円に蕎麦を1枚加えると蕎麦御前1100円になる。また、季節の食材と木綿街道の醤油や酒粕を活かした様々なおかずが楽しめる季節の御膳は要予約で1980円となっている。
木綿街道はその名の如く、木綿で賑わった街という。木綿はワタという外来の植物のこと。ワタは日本には平安時代、鎌倉時代、戦国時代にそれぞれ伝わったと言われている。それがなかなか栽培に成功しなかったのか、やっと栽培されるようになったのは、戦国時代からのようである。この出雲では、松江藩の地方役人であった岸崎佐久次は、租税の徴収のための検地や農作物などの作柄を判断する方法を確立する中で、『免法記』・『田法記』なども著した。その『田法記』(天和2年:1682年)の中に、「麦の間に植付候もの」としての作物11種の中に木綿が上がっている。余談だが、岸崎は『出雲国風土記』の研究をしており「出雲風土記抄」を書いた人物でもある。
さて、木綿街道の東に広がっていた平田湾や宍道湖西岸は、中国山地から斐伊川が運ぶ砂を使って埋め立てられた。その塩分の混じる汽水域の埋立地に、塩害に強いワタが栽培された。ワタは一年草で高さ60〜100センチ、枝は紫色になる。秋にムクゲの花に似た白色、淡い黄色、紅色などの五弁の花が咲かせ、それが球形の実となり、さらに成熟すると実の殻が割れて、中から白い糸状の繊維である木綿が出てくる。これを綿花(めんか)ともいう。このワタや綿花がごはん屋棉の花の建物の中には、ドライフラワーよろしく展示されている。さらに2階にある機織り体験ができる部屋でもじっくりと見ることができる。
木綿の布を作るには、この綿花をほぐして、さらにその繊維を寄り合わせて糸状にし、機織りして生み出す。その布は長さ5丈6尺(約17メートル)、幅9寸2歩(約28センチ)で1反とされた。平田周辺では木綿の生産が盛んとなり、1800年ごろには鳥取県の弓ヶ浜半島で木綿の買付けをしていた豪商三井が、とうとう平田にも進出したという。江戸・京都・大坂で呉服商と両替商を営んだ当時の富豪である。
さらに記録に残る文久2〜3(1862〜3)年の最盛期には、出雲全体で120〜130万反が生み出され、そのうちの約半分を平田市場が扱ったというから、大変な商いだった。それを売り買いする仲買、仲買から買い取って市場の競(せり)へ出す者、そして木綿の反物の長さに間違いがないか調べる者などが木綿街道に集まってくれば、それを相手に商いをする者も集まるということで、賑わいがさらに賑わいを呼んだことだろう。そうして競られた木綿は、木綿街道の横を流れる川で船に積まれ、宍道湖を通って、大坂や北陸へ出荷された。もちろん陸路で大坂方面へ出荷されるものもあった。
こうした木綿の普及が当時の日本海海運を担った北前船にも大きな影響を与えた。それはそれまで筵(むしろ)の帆であったものが、木綿を複数重ねた白い頑丈な帆を生み出され、北前船は、風をしっかり捉まえて疾走するようになった。ワタの栽培には大量の肥料が必要で、北海道で取れる鰊(ニシン)を煮て油を絞った後の鰊粕を西日本のワタの栽培に大量に使った。それを北前船がせっせと運んだのだった。山陰の鰯までもが肥料として瀬戸内に運ばれていた。木綿街道から出荷された出雲木綿は、近くの小津船籍の北前船が新潟に運んでいた記録も残っている。
木綿で大いに賑わっていた平田の在町医であった4代目長崎正伯は、文政8(1825)年5月大坂に行き、当時乳がんの麻酔手術を成功させた名医、華岡青洲の門人となった。木綿街道で、外科御免屋敷と呼ばれていたのは、医学修行をして腕の良い外科医になり、多くの人々を助けた故に重宝され、また優遇されたから付いた呼び名だったのではないだろうか。

ごはん屋棉の花(木綿街道交流館) 35.438330910972056, 132.82126668133904




木綿街道の家々の建築特徴である妻入り様式である

木綿街道交流館の外観

御膳に乗った定食の品々

棉の花定食

奥座敷は復元されているが、庭園は白砂が敷かれている

奥座敷と庭園

太い梁を目にしながら2階に上がると、はたおり機があって機織り体験ができる

木綿の機織り体験ができる