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常識破りの遺跡〜荒神谷遺跡〜

じょうしきやぶりのいせき〜こうじんだにいせき〜 

見る知る出雲エリア

斐川町の荒神谷(こうじんだに)遺跡は、358本もの銅剣が発見された遺跡。名前はこわそうだけど、実は、おおらかな自然に包まれた癒しの谷。学芸員さんと語りあううちに、想像力も広がっていった。史実や定説も大切だけど感じる心も大切。ここに立つと古代人の・・・いえ、私たちの先祖の生きてきた姿が見えてくる。


◎豊壌(じょう)の神が住む谷へ
 次にめざした斐川(ひかわ)町の荒神谷(こうじんだに)遺跡は、一般の人はもちろん古代史の研究者さえも驚かせたという発見が続いた遺跡。1984年の発掘調査で、全国の銅剣の出土総数約300本をはるかにしのぐ358本が発見され、‘85年には、文化圏の違いから「絶対ひとつ所に埋納されるはずがない」とされていた銅鐸(たく)と銅矛(ほこ)が同時出土している。いったい、どんな遺跡が待っているのだろうと胸を高鳴らせながら車を走らせた。

 到着した遺跡周辺は、斐川町の西谷と呼ばれる細長い谷の奥に広がる緑の深い史跡公園。空気がおいしい。

◎青銅器は黄金色という意外な事実
 最初に訪れた史跡公園入り口の荒神谷博物館では、驚くことばかりだった。たとえば、黄金色の青銅器の復元品。元々の青銅器は黄金色で、青緑色はサビ色だと知らなかったので目からウロコ状態になってしまった。銅鐸の復元品を鳴らしてみると、低いくもった音で不思議に懐かしい。「自然の音しか聞いたことのない古代人が初めて聞いた金属音。どんな想いを抱いたのでしょうね」と学芸員の露梨(つゆなし)靖子さん。きっと、天地が逆さまになるほどの衝撃を受けたにちがいない。隣に並ぶ銅剣や銅矛を持ち上げてみると「うわっ、重い! 」。銅剣や銅矛は悪霊を追いはらう祭器ともされるが、納得の重量感。青銅器が祭器や権力の象徴とされた理由が、少しだけわかった気がする。続いては、銅剣の発見から発掘までの記録ビデオを見た。発掘作業は真夏の炎天下。調査員は現地に寝泊りしながら、水に浸したビスケットのようにもろくなった銅剣を掘り出していく。発掘調査でこれだけ大量の銅剣の埋納状況が明らかになるのは史上初なので、失敗も許されない。調査員の指先の繊細な動きにかたずをのみ、銅剣が取り出されるシーンでは思わずガッツポーズ。歴史的瞬間に立ち会った気分になった。

 ◎行儀よく並ぶ青銅器たち博物館を出ると、霧雨のなかに水田の連なりが浮き上がって見えた。この田では、初夏の頃、約2000年前の地層から発見された種から芽生えた「2000年ハス」が一面に咲き誇るそうだ。幻想的な風景を想像しながら田の脇を歩くこと数分、出土地は木々が茂る小さな谷奥の斜面中腹にあった。さっき見て来た加茂岩倉遺跡と同様に、発掘し終わったままのようすが再現されている。対面の展望台に登って出土地をのぞきこむと、4列に並べられた銅剣のレプリカと、仲よく並ぶ銅鐸と銅矛のレプリカが別々の埋納坑に横たわっていた。銅剣と一部の銅鐸は、出雲で作られた可能性がとても高いと聞けば、このあたりにハイテク技術者集団が存在したのではと想像の翼も広がる。「誰が、なぜ埋めたのかしら」と加茂岩倉遺跡で抱いた謎がここでも浮かんできた。「埋納?の謎は、まだまだ解明中」と前置きした露梨さんが諸説を紹介してくださった。祭祀(さいし)説、保管説、隠匿(いんとく)説、廃棄説……。いずれにしても、重大な何かが起こったに違いない。その後、遺跡名の由来となった三宝荒神(さんぽうこうじん)を参詣し、史跡公園に復元された竪穴式住居でくつろいでいると、山の息吹を感じた。古代人は敏感に五感をめぐらし日々を暮らしていたのだろう。ふと、古代人に近づいていくような気がしてきた。




遺跡名の由来となった三宝荒神(さんぽうこうじん)

大きな石が目印の三宝荒神

霧に浮かぶ荒神谷(こうじんだに)博物館

俯瞰からみた荒神谷博物館

古代人はこんな風景を見ていたのかな?

竪穴式住居を外から見る

出土状況の再現。左が銅剣、右が銅鐸と銅矛

遺跡全景