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名勝立久恵峡(下)

めいしょうたちくえきょう(げ) 

見る知る出雲エリア平成時代

松江藩主の中でも茶道に長けて有名な松平治郷(不昧公)が藩主になる前、明和3年(1766)、16歳の時に立久恵峡を訪れ、彼より以後の歴代藩主が毎年、立久恵峡を訪れたと云う。この2年前の宝暦14年(1764、明和元年)の3月、松江藩家老の大野舎人が、松江藩主に学問を教えていた桃白鹿(ももはくろく)を連れて神戸川を船で遡上して立久恵峡を遊覧していた。


その年、桃白鹿が書いた遊神亀峡記によると、一行は先の2人に加え、画家の高木伝十郎、藩の文書作成をする右筆(ゆうひつ)役の海野叔明、陶山其慎の合計5人であった。彼らは、最初の内は秘境をのんびりと遊覧していたのだが、奥の院である瑠璃光照の窟を探そうということになり、海野と陶山の両人が船を北岸に着けて、岩をよじ登り、とうとう瑠璃光照の窟を見つけ、さらに堂の上の岩上に立った。つまり天柱峯の頂上に立ったのである。船に戻って来ても、汗が出ること絞り汁のような陶山の息切れが収まって云うところは、「山中で薪を拾う老翁と児に会ったので、道案内を頼むと、児が案内してくれて瑠璃窟に至った。その道は、山の背後から来る者の道と云う。さらに瑠璃窟の上に出たら、そこは肩幅ほどの足場で、足を失えば千仭(せんじん)の谷に落ちる。よっぽど肝が太くなければ腰を伸ばして立つことができない。」であると。今では、腰のし岩と呼ばれる山頂のことであろう。一行は船の上で酒を酌み交わして立久恵峡を堪能した。
ここに私も登ってみたが、その山頂の下にほぼ垂直な崖が10メートルほどあって、木の根や岩につかまってのクライミングであった。なんとか登り切った山頂は幅30センチぐらいで、その先はすぐに断崖となっており、足が震えて長らくは立っておられず、すぐに這いつくばる有様で、腰のし岩と呼ばれる由縁を存分に味わうことになった。
さて、先の山の背後から来る道であるが、北側の古志町新宮方面から表参道があったと書かれたものもあって、探しに行った。古志町新宮から立久恵の上流の乙立(おったち)を経由する旧備後街道の途中、芝生台(しばんざい)という場所の道路脇に道標が立っていた。それには、「南無薬師如来 左立久恵道、明和二酉秋彼岸」と刻まれていた。明和2年(1765)は、桃白鹿等が立久恵峡を探勝した翌年である。そこから南へ向かって道のない山中を進んでみると、まもなく道の跡らしきものがあった。その山中の参道は周りから少し窪んで幅が2メートル以上もある広い道で、今はもう雑木が生えていて、とても参道とは呼べそうに無いが500メートルほど続いて、さらに奥へと延びていた。また、地元の方が言っていた、今は集落に移したという大山さんの石の祠もあった。50年ぐらい前までは、この参道の草刈りもしていたという。往時には多くの人が通っていたと思われた。一般の人々は、藩主のように神門川を上るために船を仕立てるような余裕は無かったのだろう。
なお、立久恵峡の五百羅漢は、霊光寺が建立にあたって奉納されたもので、後に千体仏奉納運動となって、千体近い数になっているようである。また、霊光寺の上流にある立久恵薬師堂(飛光寺)は、平成5年(1993)に地域の有志によって復興された御堂である。
終わりに、奥の院と題されたノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士の和歌を見つけたので紹介する。
山の背に胸つく岩をよじのぼりおろがみまつる瑠璃光の窟



立久恵峡バス停      35.293842, 132.742220
霊光寺          35.295422498531856, 132.73609165607783
奥の院(瑠璃窟)     35.29692785357895, 132.73663946061723
天柱峯          35.29730342587585, 132.7366394606157




頂上は平らな部分の幅が30センチも無いような細長い形

天柱峯の頂上、別名は腰のし岩

屋根を支える細い丸太が放射状に伸びている

霊光寺から見上げる天柱峯、中腹右側に仏の

奥の院のある中腹には断崖の岩に修行の場だったと思われる大きな穴がある

写真中央が天柱峯

高さ50センチほどの細長い石に文字が刻まれていた

南無薬師如来、左立久恵道と刻まれた道標