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アヂスキタカヒコはどこに居たのか

あじすきたかひこはどこにいたのか 

見る知る出雲エリア平成時代

『出雲国風土記』には、オオナムチ(オオクニヌシ)の息子のアヂスキタカヒコ(阿遅須枳高日子)命が、髭が長々と伸びる年齢になっても、昼も夜も泣いてばかりで言葉も通じなかった、とある。これは、『古事記』や『日本書紀』に登場する垂仁天皇の皇子であるホムチワケが、大人になって髭が胸先に達しても喋らず(『古事記』)、赤子のように泣いてばかりであった(『日本書紀』)という物語とそっくりである。」


これは既に、この「いずもる」の「神様が沐浴した泉」に書いたものである。このアヂスキタカヒコは『出雲国風土記』の神門郡高岸郷(かんどぐんたかぎしのさと)にも登場し、夜昼と泣いてばかりいるアヂスキタカヒコを、オオナムチが高い建物を作り、その階段を上り下りして養育した。とある。この高岸郷は、現在のどのあたりかというと、アヂスキタカヒコを祀る阿利神社が鎮座している塩冶町(えんやちょう)高西地区のあたりと考えられている。出雲弥生の森博物館が作成した古代神門水海の想像図を見ると、現在の高西地区とその北に続く海上地区から出雲ドームのある矢野地区あたりまで岸辺が続き、その西側に神門水海が広がっていたようだ。
現在の阿利神社から北に800メートルほどの場所、出雲市民会館の南側にある有原中央公園の北西の隅に、公園の垣根の陰に隠れるように阿利神社跡の石碑があった。この一帯は、阿利神社があったことから有原(ありはら)と呼ばれ、今では塩冶有原町という。
この神門水海の岸辺に高い建造物があったならばと、出雲市民会館の近くにある有原跨線橋に登ってみた。出雲市民会館の向こうに白い出雲ドームが少し見えた。この高みへ登って見渡すと、目の前には大地だけでなく、左手には神門水海が見渡せて、きっと船も行き交っていたであろう。それをしばらく眺めて、また有原跨線橋の長い階段を降りる、この階段の上下の移動も普段には無い景色であり、子どもの喜びそうな遊びとなる。オオナムチは息子がなんどか物を言うようにならないかと、気にかけながら上り下りしたのであろう。
さらに『出雲国風土記』の仁多郡三澤郷に描かれた様子では、オオナムチがアヂスキタカヒコを船に乗せて、八十嶋(やそじま)を巡って慰めたけれど、なお泣き止むことはなかった。とある。この高岸から船にも乗せて漕ぎ出してアヂスキタカヒコをあやしたのだろうか。八十嶋とはどの辺りのことだろうか。高岸(今の高西)と北山の麓にあるアヂスキタカヒコを祀る阿式神社を結ぶ線の真ん中ほどあたりに八島町と呼ばれる場所がある。『高浜村誌』には、寛永13(1636)年にこのあたりを開墾したとき、ここに高き島が八つあったので八島村と名づけたと『山田家旧記』に書かれていたとある。北山の麓の阿式神社の近くまで神門水海が広がっていたようだから、八つの島があり、そこを船で廻ったことを示すのではないか。八十嶋の八十がたくさんという意味を表しているとすれば、八つの島を巡る船旅は、八つの島影が折り重なって多様な景観を生み出すであろうから、やはり八十嶋はこの八島町あたりを示しているのであろう。
『出雲塩冶誌』には、阿利神社の近くの弥生時代中期の遺跡である海上遺跡からは、船首、船尾が強く反り返ったゴンドラ形の舟形容器が出土したとあり、また白枝荒神遺跡からは、サメの絵のある同じ弥生時代中期の広口壺が出土しており、「頭部を欠いているが、細長い胴部に背鰭、腹鰭、尾鰭を描き、一見してサメとわかる。絵は躍動感にあふれ、書き順がわかるほど手馴れた書き方をしている。」(『出雲塩冶誌』)とある。このたりが、日本海につながる神門水海に面していたであろうことを強く感じさせる。
さて、オオナムチの努力の甲斐もなく、息子のアヂスキタカヒコに言葉が宿ることは無く、解決の糸口はオオナムチの夢に現れた。ここから先は、この「いずもる」の「神様が沐浴した泉」に書いたように三澤への親子旅が始まるのである。
一方、『古事記』や『日本書紀』に登場する垂仁天皇の皇子であるホムチワケはというと、空を渡る白鳥を見たことがきっかけとなって、記紀の物語の内容に幾分の違いはあるが、言葉を発したことになっている。そこには出雲との関係が語られ、さらに、この言葉を発した一件によって、『日本書紀』では、鳥取部(ととりべ)・鳥飼部(とりかいべ)・誉津部(ほむつべ)が、『古事記』では、鳥取部・鳥甘部(とりかひべ)・品遅部(ほむちべ)が、それぞれ垂仁天皇によって設置されている。鳥取部とは鳥を捕獲する職、その鳥を養うのが鳥飼部、鳥甘部。誉津部や品遅部は、ホムチワケに奉仕した人々のことである。
古代、神門水海に注いでいた二つの川、出雲大川(現在の斐伊川)と神門川(かむどかわ:現在の神戸川)が山間部から出雲平野に出るところ、この両川にはさまれた場所、今の塩冶(えんな)地域にも当たる場所に、神門郡鹽冶郷(やむやのさと)や日置郷(へきのさと)があったと考えられている。『出雲国風土記』が完成して5年後の天平11(739)年に出雲の国司が貧しい人々に食料援助をした際の報告書『出雲国大税賑給歴名帳(いずものくにたいぜいしんごうれきめいちょう)』が残っており、そこの日置郷に、鳥取部や品治部(ほむちべ)の氏族の名前が見られる。ホムチワケやアヂスキタカヒコの物語が現実味を帯びて来るのではないだろうか。

参考文献
出雲塩冶誌   発行 出雲塩冶誌編集委員会 平成21年3月1日
簸川郡高浜村誌 発行 高浜村 大正13年1月
高浜探訪    発行 高浜歴史研究会 平成27年3月


阿利神社跡石碑   35.361280, 132.744815
現在の阿利神社   35.355630, 132.747480
出雲市民会館    35.361751, 132.745021
海上遺跡      35.362441, 132.751329 (現在の出雲市民病院の場所)
白枝荒神遺跡    35.370361, 132.734134 (現在の八通荒神社の周辺)




高西地区にある境内から本殿の後方約700メートルに出雲市民会館が見える

現在の阿利神社

歩道から公園の垣根の中を覗きこむと眼前に立っていた

有原中央公園の阿利神社跡石碑

出雲大社近くの弥山(標高506m)からの景色、眼下に八島町が見える

写真中央部が八島町(弥山山頂より)

右手奥が出雲市民会館(有原跨線橋より)