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氏子が支える諸手船神事

うじこがささえるもろたぶねしんじ 

見る知る松江エリア平成時代

「ずいぶんあちこちと旅行ばかりしているが、今までのところいちばん印象の強い、なつかしいところはどこだ、と聞かれれば、ためらうことなく私は、それは出雲の美保関だとこたえる。」これは、日本の民俗学をリードした和歌森太郎が『美保神社の研究』の序に記した言葉である。美保関の祭りについて聞き取りを重ね、1年間の祭りをほとんど見に来て、数年間に渡って美保神社を念頭におきながら研究したという。


美保関の子どもたちに「祭り」とあだ名されたこの民俗学の重鎮を惹きつけたきっかけは、一年神主である。これは、神主の言葉がついているが、神職ではなく、氏子の中から選ばれた者である。
美保神社には大きな二つの祭り、諸手船(もろたぶね)神事と青柴垣(あおふしがき)神事がある。二つの神事は共に、『古事記』『日本書紀』にみえる国譲り神話にゆかりのある祭である。ここでは、諸手船神事を通して、後に一年神主になるであろう當屋(とうや:頭屋とも書く)の3人について見てみよう。1人は客人(まろうど)當、残る2人が一の當、二の當と呼ばれる。
諸手船神事の開催は毎年12月3日。昼12時になると、神職を始めとする裃(かみしも)姿の一行が青石畳の通りを港の東にある客人(まろうど)社へ向かう様子は、江戸時代にタイムスリップしたかのような風景である。客人當は、数人の白装束の神職の後に続き、黒色の裃に赤い帯を絞めて続いている。客人社にお供えを捧げ、祭りが終わると客人社祭の一行は神社の鳥居と本殿の間にある会所で直会を行う。直会の参列者には、イカ、コンブが配られ、数日前から客人當が中心となって作った甘酒を口にする。そして里芋と大根ナマスなどからなる芋膳が配られ、さらに白米の粉を練り固めて丸くした粢(しとぎ)が回って来て少し口にする。粢は客人社に供えられた時、榊の小枝が立てられていたものである。直会はまだ続くが、この客人社祭を司るのが客人當である。
午後2時ごろになると、直会に参列した一同は拝殿に昇る。ここからが諸手船神事である。宮司が、一の當、二の當をマッカ持ちに指名し、マッカと呼ばれる杉の木で作られた3つ又の飾り鉾(ほこ)を2人に渡す。次に指名されるのは、大脇(おおわき)と呼ばれる船の舵取り役を補佐する役の2人である。このうちの1人が客人當である。この後の舵取り役の大櫂(おおがい)2人と12人のカコ役(船の漕ぎ手)は神籤(みくじ)で選ばれる。
一行18人(マッカ持ちの一の當、二の當の2人、大脇の客人當1人と他1人、大櫂の2人、カコ12人)が一の御船、二の御船に分かれて船に向かう。
マッカ持ちが先頭を歩き、乗船すると真っ先にが舳先(へさき)の穴にマッカを差し込んで立てる。舵取り用の大きな櫂が船の艫(とも)に据え付けられ、一行は櫂を包んでいたムシロを船べりにかけて、櫂の動きを確かめつつ漕ぎ出し、船は客人社のある方へ向かってゆっくりと進み始める。
諸手船神事は、国譲り神話の中で、美保関にいるオオクニヌシの息子のコトシロヌシに国譲りの承諾の可否を問うため、使者となったイナセハギが熊野の諸手船に乗って向かったことに由来している。そのためか、オオクニヌシが祀られた客人社の下の灘は国譲りの交渉の場であった稲佐の浜とされ、2艘の船はそこで客人社を遥拝すると、コトシロヌシの居る美保関と見立てられた宮灘に向う。宮灘が近づくと2艘の船は競走を始め、着岸すると双方が櫂を使って海水の掛け合いとなる。漕ぎ手達がヤアヤアと大きな声を上げて、勢いよく12月の海水を掛け合う姿が勇壮で、師走の訪れを告げる話題として新聞やテレビで伝えられ、一般にもよく知られている。この後、いくつかの所作を経て神事が終了する。
マッカ持ちを務めた一の當、二の當は4月7日の青柴垣神事の主人公でもある。美保神社の二つの本殿、向かって右の大御前(祭神ミホツヒメ)に一の當が仕え、左の二の御前(祭神コトシロヌシ)に二の當が仕えるのである。この2人の當屋は青柴垣神事の最終日に、客人當はその翌日に神籤によって選ばれる。
この當屋の関係はというと、一の當、二の當の経験者が客人當を務めることができ、客人當を務めると2年目は下席休番、3年目は上席休番と呼ばれ美保神社の1年間の様々な神事に参加する。そして4年目には美保神社の祭祀組織の頂点である頭人(とうにん)となる。ここまで4年間、神籤で客人當に選ばれた日から、客人社の南側のゴツゴツした岩のある海に浸かって潮カキと呼ばれる潔斎を毎日行い、美保神社や客人社などを毎日参拝することになっている。客人當から始まる4年間は「千日の行」とも呼ばれ、それを務め上げたからこそ、地元の人に「神主さん」と呼称される。また頭人のみに伝わる祈祷があり、現代でも、祈祷に際しては神託を告げることもあるという。この頭人こそが、一年神主なのである。
當屋に選ばれるには、ここに上げた他にも様々な条件があるが、この港町の人口が千人を切り、氏子も時間の自由が聞く漁師や旅館の主人から勤め人が多くなると、こうした毎日の潔斎も4年目の頭人の時だけとなるなど、時代の影響を受けて大きく変化しているようである。それにしても、島根半島の各地の神社の祭事で、時々耳にしたのは、昔の頭屋は毎日の潮カキ、参拝をしていたということである。

美保神社  35.562273, 133.306505
客神社   35.560693, 133.311880




美保神社の海岸の鳥居を出て行こうとする一行

客人社に向かう神職に続く客人當

直会の時に、回ってくる御幣を振る動作が釣りのように見えるもの

客人社祭の直会、釣りの所作ともいわれてい

包まれた白布から剣などの部分が飛び出している

マッカを手にするマッカ持ち

2艘の船に乗ったカコたちが勢い良く海水を掛け合う様子

諸手船神事はヤアヤア祭とも言われる