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ヤマタノオロチ伝承(その1)

やまたのおろちでんしょう そのいち 

見る知る出雲エリア平成時代

「その目は赤いホオヅキのようで、一つの身に八つの頭と尾があり、その身には苔やヒノキやスギなどが生え、長さは八つの谷と八つの峰に渡り、その腹を見れば常に血がしたたりただれている。」これは、『古事記』に載るヤマタノオロチの姿である。『日本書紀』にも、ほぼほぼ同様に描かれている。およその長さを想像してみるのだが、八つの谷と八つの峰に渡ると言うから、少なくとも数キロメートルなのではないかと思われる。


蛇が8匹束になり、その長さはというと数キロメートルはあろうかという巨大な怪物ヤマタノオロチが、『古事記』や『日本書紀』に書かれたと同じ様な時代に、出雲の地で書かれた『出雲国風土記』にはまったく登場しないので、古代史研究者の間でも大きな謎とされている。しかし、出雲の地を巡るとヤマタノオロチの伝承が各地に存在することが分かってくる。そもそもヤマタノオロチは後にスサノヲの妻となるクシナダヒメの命を狙っていた怪物として描かれ、スサノヲに切り刻まれて退治される物語となっている。退治されたヤマタノオロチの尾から出現した剣は、天皇家に伝わる三種の神器の一つ草薙剣(くさなぎのつるぎ)であるとされる。
ヤマタノオロチが退治され、その血が流れて真っ赤に染まったと言われている斐伊川(ひいかわ)を出雲市から遡ると、お隣の雲南市に入った加茂町神原の斐伊川に赤川という川が合流するあたりに八口神社という鄙びた社があって、ここに伝承があった。神社に掲げられた由緒書きに、スサノヲに追われた「大蛇(オロチ)が川を流れ下って、かろうじてこの地まで辿りつき、草を枕にうめき苦しんでいた時、命(ミコト)が大蛇(オロチ)の八頭を切り伏せ給うた故事にちなみ八口と言う。」とあった。その草を枕にした場所は、八口神社から200メートルほど離れた草枕山である。オロチが頭を横にした場所にしては、かなり小さいと思える小山である。この赤川が斐伊川に合流するあたりは、斐伊川の河床が上がり、頻発する洪水時には斐伊川の水が赤川に逆流して氾濫するため、土地が荒廃した。そこで、それまで草枕山の南側を通って斐伊川に注いでいた赤川の流路を変える川違え(かわたがえ)を行った。それは、安政3年(1856)から安政6年(1859)の間に、草枕山を切り貫いて、八口神社と草枕山の間を流れていた赤川を、その切り通しを流れるようにしたという。しかし、この時、大きな山であった草枕山のほとんどを切り崩してしまったというのだ。
境内から草枕山が見えないかと、ウロウロしていたら、その草枕山の復元想像図が載った看板があった。なるほど、思っていた以上に大きな山で、オロチが枕にするに相応しい大きさと思いつつ、書かれている文章を追うと、そこには「スサノオノミコトがヤマタノオロチの八つの頭を斬られたにより八口大明神といわれた。また、大蛇が八塩折(やしおり)の酒に酔い草枕山を枕に伏せっているところを、男命(みこと)が矢をもって射られたので、矢代郷、式内社矢口社という。」とあって、弓矢を使ったとは初耳だったが、後にその時の弓を掛けた弓掛けの松と伝わる背の高い老松が境内にあったらしい。ヤマタノオロチ退治の物語の把握に混乱を来すが、これが伝承というもの、誰が作ったのだろうと思うが、一方でいろいろ想像が膨らむ。
この八口神社は、出雲国風土記では大原郡の神社の中で一番に上げられている矢口社であり、延喜式では式内社である八口神社とある神社なので、とても重要な社であり、斐伊川から赤川水系の谷の入り口であるので、谷の口がもともとの地名の意味ではないかとする研究者もいる。由緒ある神社なのだけれど。
地元で編纂された『ふるさと二千年・三代郷土誌』によると、草枕山という神聖な神話の地を切り抜くにあたり、イザナギ、イザナミの両神から生まれた大山祇命、埴安姫命、罔象女神(みつはのめのかみ)の三神を八口神社に勧請して、工事の安泰を祈り、七座(しちざ:七番の神楽のこと)と神能を奉納して安政3年秋の着工に踏み切ったそうだ。(それぞれの神、大山祇命は山の神、埴安姫命は土の神、岡像女命は水の神である。)山は硬い岩質で難工事となり安政6年5月(一説には安政5年8月とも)に工事を完了した。そこで、残った左右の二つの草枕山の左手の山に、先の三神を三社大明神として合祀して、小祠を立て、五穀豊穣と洪水の無いことを願い、山頂で毎年お祭りを行ったという。また、山の神の大山祇命は牛好きの神様と聞こえていたことから、この地域、下神原の牛を全部、麓に集めてお守りを受けて牛の無事を祈ったという。こうした行事は昭和5年ごろまで続けられ、その後は毎年9月10日前後にお祭りが行われたとあった。その小祠を見たくて草枕山の周囲を見て回ったが登山口も見当たらず、近所の方に聞いたら、もう祭りもしなくなって永らく経つことから道は荒れ果てているでしょう。とのことだった。神域でもある草枕山は無くなってしまったが、今では切抜(きんぬき)さんと呼び習わしているそうだ。
さて、この八口神社から約600メートル南にある丘陵地に草薙剣の発祥地があった。草枕山の頭に対する尾の場所である。ヤマタノオロチ伝承(2)につづく。
※赤川は約2キロメートル下流で斐伊川に注ぐように、そこまで堤防で仕切られている。これは当時、赤川の河床が斐伊川の河床より低かったため、水が流れにくかったため取られた鯰(なまず)の尾と呼ばれる治水方法である。

八口神社    35.337043, 132.874616
草枕山(左側) 35.336211, 132.871920
赤川の鯰の尾  35.342613, 132.847141




近くにある今の草枕山が望める

八口神社境内から見える草枕山

中央の赤川の両脇に残った草枕山

草枕山から約2キロメートル下流で斐伊川に注ぐ赤川

大河の斐伊川に注ぐ赤川(鯰の尾)

山頂にある小祠とお地蔵さん

草枕山の山頂