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ヤマタノオロチ伝承(その10)

やまたのおろちでんしょう(そのじゅう) 

見る知る出雲エリア平成時代

前回の(その9)でヤマタノオロチに因む場所がとても多いことが分かったが、それでもまだ他にもヤマタノオロチに関わる場所があった。今回は、先の一覧には無かったヤマタノオロチの尾を祀った社を紹介する。それは現在の雲南市木次町平田にある尾原ダムの南側、下流500メートルほどのところに鎮座する石壺(いわつぼ)神社の境内にある。この神社は、出雲国風土記に石壺社と記載されている。


この石壺神社の境内に尾呂地(おろち)神社がある。それは、本殿の左側にある小さな石造りの社だった。ここにヤマタノオロチの尾が祀られていて、祭神は蛇神という。ヤマタノオロチが、こんな小さな社に収まっているのか、と揶揄する人もいるだろうが、境内にある石壺神社概記には、『神代藻塩草(もしおぐさ)」(江戸時代)の「出雲社記」には、雲州仁多の佐白と大原郡中久野村の境に「八頭坂(やとさか)」がある。素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐蛇(やまたのおろち)を斬られた所である。八頭坂を西に下った斐伊の郷には「八本杉」があって大蛇の頭が祀られてあり「尾原村」には大蛇の尾が祀られてあるその故に「尾原」というと記されてある。』と書かれている。地元の郷土史家の内田稔さんが、ダムができるまでにと書き上げ1994年12月1日に発行された「悠久のふる里 尾原北原の年輪」には、この尾呂地神社は、境内の椎の巨木の元にあった小さな祠(ほこら)がそれだとある。その本には椎の巨木の写真も載っており、そのような巨木なのに見落としたのかもしれないと、再度、石壺神社に赴いてみたが、そんな椎の巨木は皆目見当たらない、ちょうど翌日の秋祭りの準備に来られていた地元の年配の男性に声をかけた。なんと椎の巨木は現在の本殿の右隣りにある鳥居の後ろあたりにあった。という。そんな巨木の残された幹さえも見当たらず跡形も無いとはどうしたことなのか。
石壺神社概記には、尾原ダムは1987年に着工され2012年に完成している。この時、石壺神社も1999年5月6日に仮殿遷座祭が行われ、1年後の2000年10月28日に移転新築された社殿にて本殿遷座祭を斎行された。とある。移転といっても境内の中での移転だったようで、今も背後のこんもりとした亀山の麓に鎮座するのだ。それって遷宮するほどのことなのかとこの取材の間ずっと気になっていた。そこで、先の男性に聞いたら、その移転は水平方向ではなく、垂直方向という、まさかの移転だった。それは尾原ダムの建設で山を削ったりした土砂を置く、残土処理といわれる場所に亀山周辺が選ばれ、以前よりも土地が4〜5メートル高くなって、神社前の広い公園もできたというわけである。この時、惜しまれながらも椎の巨木が切られたらしい。これで納得できたことがもう一つ。本殿の背後の亀山の名の由来は、瓶(かめ)のように見えるから付いたというものだったが、瓶というよりはお椀のようだと思っていた。しかし、亀山の周りをもう4〜5メートル掘り下げれば、それは瓶のように見えただろうと思えた。
さて、石壺神社の出雲国風土記にまつわる話がある。次は石壺神社の遷宮前の1998年に発行された「家の上遺跡・岩壺遺跡」と題された当時の木次町教育員会の発掘調査報告書の総括に書かれたものである。
「この調査により奈良時代において当地には石壷社と水辺の祭場が祭祀の場として同時に 存在していたことが窺えた。人々は祈りの対象ごとにそれぞれ祭祀を行なったことも考え られるが、現在の石壷神社は後背の亀山に対せずやや斜方の真北を拝する方向に建てられており、これを延長するとちょうど井泉に当たるのは興味深いところである。」
この井泉とは石壺神社の本殿後方、北へ約200メートルのところに湧き出る島根の名水百選「前の舞の古井」のことである。発掘調査で周辺から土馬などが出ており、古代この辺りで水にまつわる祭祀が行われていたと推測されているのだ。さらに出雲国風土記の研究者の中には、この「前の舞の古井」が出雲国風土記の三澤郷(みざわのさと)で、オオクニヌシの物言わぬ息子、アヂスキタカヒコが初めて言葉を発した水沼(みぬま)ではないかと考える人もいる。現在の水沼の場所の定説は、石壺神社から2キロメートルほど南方の三澤城址にある三澤の池(いずもるの「神様が沐浴した泉」を参照)なのだから、前の舞の古井とは、どのような泉なのだろう。
また、先の男性に前の舞の古井は見せてもらえるかと聞くと。大丈夫でしょう。と言われたので、さっそく行って、拝見させてもらった。その古井は三つに分かれていて、一つは屋敷の塀の外側にあって、塀の内の一番奥に泉池があり、そこから繋がってもう一つの池があり、さらに繋がって塀の外の池があったのである。このつながった三つの池のまわりの草や苔むした縁をじっと見ていると、しっかりと石が組まれていることが分かった。そして先の内田さんの本では鶴島、亀岩があるということだが、亀の頭の形をした亀岩は教えていただいたが、鶴島ははっきりしないとのことだった。さらに、「三澤城の城主が石壺神社を崇敬し、元旦にこの社に祈願を込め、この池できよめの舞を奏し、若水を組んで帰城したと伝えられている。」と内田さんは書いていた。家人いわく、一番奥の池に泉が湧いていたそうだが、近年になって湧かなくなってしまい、今は背後の山から山水を引いて古井に入れている状態とのことだった。出雲国風土記の研究者として著名な関和彦氏は、毎年のようにここを訪ね、家人に「大切にしてくださいね。」と言われていたそうだ。
尾原ダムにあるダム湖は、さくらおろち湖と命名されている。このダムは下流の洪水対策のために整備された。ヤマタノオロチがたびたび起こる洪水を想起して生まれた物語だとすれば、この因縁の地で退治しようというものである。今では、下流にある松江市・出雲市・安来市の3市に対し、1日最大38,000立方メートルの水道水を供給している。水の祭祀がなされていた川の水が、今も変わらず恵の水となっている。



石壺神社  35.218033, 132.951191




高さ1メートルほどの全体が石造りの社

尾呂地神社

鳥居の左右より青空に向かって、いわつぼ神社の文字が旗めいている

秋祭り前日の石壺神社

いわつぼ神社の背後にある亀山を中心にした写真

中央が亀山、左奥が尾原ダム

幅1メートル、長さ2メートルほどの池

3つ目の池、奥の塀内に泉と池