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ヤマタノオロチ伝承(その11)

やまたのおろちでんしょうそのじゅういち 

見る知る奥出雲エリア平成時代

ヤマタノオロチ退治の後に、イナタヒメと結ばれたスサノヲが、この山の山頂に居を構えて「我が心、須我須我(すがすが)しい」といったので「須我非山(すがひやま)」となったと伝わる。山は今、城山(じょうやま)と呼ばれ、山頂にはテレビ局の中継用アンテナの鉄塔が立っている。


出雲国風土記には、仁多郡の条に、菅火野(すがひぬ)とあり、郡家の正西四里なり、高さ一百二十五丈、周り一十里あり。と続き、末尾に小文字で、峯に神社あり。と記されている。一百二十五丈は約371メートルになるが、現在示されている城山の標高は578メートルである。菅火野の野と書かれた山なので、木立は少なく草山だったと思われる。そんな山の頂上に神社(かみのやしろ)があった。それは、風土記の神社列記の中にある須我乃非(すがのひ)社だろうといわれている。この山の真東に四里、当時の距離で2キロメートルあまりのところに、郡家(ぐうけ)があった。今、その場所は郡村と呼ばれ、遺跡や出土遺物から郡家があったと考えられている。郡家は「こおりのみやけ」とも読み、古代の仁多郡の政務を執り行う役所のことである。地形から郡家からも良く見えた山だと思われる。
さて、江戸時代に松江藩が作成した地誌、雲陽誌には「古城 菅火山という、上三所より郡村への通路左の山上なり、里俗日光山といふ、風土記に載る須我乃非社斯山上にあり、今は祠なし城主年代いまた詳ならず」とある。
また、頂上にあった上三所(かみみところ)地区有志の作成された解説看板によると、築城は鎌倉時代にさかのぼり、三沢城の出城として築かれ三沢氏の家臣、石原氏が南麓に居住したという。また、その後、尼子氏の時には、家臣の斉藤熊三郎が北麓に居住したという。相当大きな山城だったらしく、馬乗場や刀とぎ場があったという。江戸時代初期に南の麓にある角木に移し、その後、さらに居去神社と大領神社にそれぞれ合祀したのが明治40年のようである。
冒頭に書いたイナタヒメと結ばれたスサノヲが、この山の山頂に居を構えて「我が心、須我須我(すがすが)しい」といった。ところは、この出雲地方では、雲南市大東町にある須賀神社であると言われている。それは、古事記や日本書紀を持ち出していうのだけれど、出雲国風土記は須賀神社があったことは示すが、物語は何も伝えず、菅火野も須我乃非社についても物語を伝えていない。
山頂から南に見える麓の集落が以前は角木村と呼ばれており、そこに移された神社が須我非神社として残っているというので、城山を降りて行ってみた。頂上からおよそ500メートルのところで、近い場所である。
そこは、道路の右脇にこんもりとした鎮守の森があって、その中に鎮座していた。少し坂を登ると、石の鳥居があって、その向こうに小ぶりな社が二つ並んで建っていた。近づくと、右側は天照大神であり、左の社の扁額が「須賀非神社」とあった。須我でも菅でも無く須賀であった。そして非神社は小さな文字となっている。この文字の表し方、大小には何か意味でもあるだろうか。
拝殿は、鳥居と社を結ぶ動線の右側にあり、城山が見えないかと拝殿の後に回って見ると、アンテナ鉄塔の立つ山が見えた。鎮守の森を出て城山を見ると、さらになだらかに少し中央が窪んだ台形をした山の全貌が分かる。古代あの山の頂上に、須我乃非社があったのだと思うと、美しい山景である。
さて、これを書いている最中に、見つけた新たな資料「仁多町民俗調査」(昭和55年度報告、仁多町教育委員会、北九州大学民俗研究会)の中に、城山の雨壺という項があり、山頂付近に大岩が三つあって、その一つに壺のような穴が空いていて、その水が一年中溜まっていることから、それを村人は石池サンと呼び雨乞い神として祀っていた。というである。これを書いているのは12月、すでに仁多の城山は雪の中となっており、その磐座と思われる岩を雪が溶けたら探しに行き、また追記してご報告しようと思う。


城山(須我非山)   35.218169, 133.022862
城山登山口      35.219821, 133.006569  ここから頂上まで約3km
須賀非神社      35.210360, 133.026026
出雲三成駅      35.196602, 133.009730
出雲八代駅      35.227497, 133.001494




頂上にはテレビ局アンテナ鉄塔や東家がある

城山(須我非山)頂上

奥出雲の山々がひろがる景色

角木方向、中央に須賀非神社の鎮守の森

こんもりとした鎮守の森の中にひっそりとたたずんでいる

須賀非神社の鳥居と奥に社

台形をした城山が近くにみえる

須賀非神社からの城山の山容