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弥山(みせん)さんに登る(2)

みせんさんにのぼるその2 

見る知る出雲エリア平成時代

弥山と書いて、「みせん」と読む山は、その頂上にある巨石群があって有名な広島の宮島の弥山などが有名だけれど、この出雲の弥山の標高は506メートルで宮島の弥山よりわずか29メートル低いに過ぎない。人気のNHKの番組「にっぽん百低山」では、すでに宮島の弥山は紹介されたようだが、ぜひ出雲の弥山にも足を運んでほしいところだ。出雲神話の舞台が眼下に広がる絶景なのだから。


頂上からは国譲りの交渉地となった稲佐の浜も見える。『古事記』や『日本書紀』に語られたオオクニヌシが高天原のアマテラスに地上の国を譲る神話がある。これが国譲り神話と呼ばれる物語で、『古事記』で見るとアマテラスの配下の2神、タケミカヅチとアメノトリフネが派遣されて、伊耶佐(いざさ)の小浜(現在の稲佐の浜といわれる)に降りました。タケミカヅチは十掬剣(とつかのつるぎ)を波頭にさかさまに立て、その剣先にあぐらをかいてオオクニヌシに国譲りを迫ったというものである。その国譲りの場である稲佐の浜を、海辺に小さく見える弁天島と共に西の方角に見ることができる。そして、そこから南への弓なりに伸びて、美しいカーブを描く白砂の浜は、『出雲国風土記』にある国引きの綱の跡と伝わり、その綱をつなぎとめたサヒメ山、現在の三瓶山がはるか弓形の砂浜のその向こうに見えるのである。
風土記の時代には現在の斐伊川が宍道湖に流れるのではなく、大社方面の日本海に流れ出ていたのだが、その途中にあった神門の水海(かんどのみずうみ)と思われる場所も一望のもとである。空高い高天原(たかまがはら)から見下ろすように、神話と古代を体感できるのである。
この頂上に宮島のような巨石はないが、出雲の弥山も岩山なのだろう、地面からいくつも岩がのぞいている。頂上の西の端にはコンクリートでできた古い小屋があって、その中に何か祀られているように見える。島根県立図書館のデジタルライブラリーにある宝暦12年(1762)の古絵図『遥堪村阿式山絵図』を見ると頂上の西には建造物があって、東にも建造物があることがわかる。西側は御山(みせん)神社であるが、近年、東の麓にある阿須伎神社境内に下されて、弥山の遥拝所となっていて、そこの立て札に「神体山御山」とあり、山がご神体とされていることがわかる。
一方の山頂東にあった建造物は、弥山大権現と考えられる。この弥山大権現は、明治の廃仏毀釈の際に里に降りており、現在は大社の町の中にある影向山松林寺の本堂に向かって左手の境内に小社として祀られている。寺伝には「弥山大権現は、天之御中主(あめのみなかぬし)大神、高皇産霊(たかみむすび)大神、神皇産霊(かみむすび)大神、つまるところ大日如来であり、真言宗の宗祖弘法大師がその像を刻まれて弥山山頂に祀られ、土難、水難、火難を断つあらたかな霊験をもって人々の崇敬讃仰を受けてこられた」とあるそうだ。
宮島の弥山山頂にも、弘法大師の足跡があって弥山本堂や大日堂があり、さらに厳島神社奥の宮となる御山神社がある。出雲の弥山も同様であり神仏混合の時代があったことがわかる。
平安時代末に修験の寺として京都まで聴こえた鰐淵寺(がくえんじ)がこの弥山から連なる山系の中あって、江戸時代の初めまでは、出雲大社の拝殿でにおいて鰐淵寺の僧侶が護摩法要を行なっていたという。弥山から鰐淵寺へと続く縦走路にある天台ヶ峰、極楽山、大黒山、天ヶ峰などの山名は修験道の修行場であった名残だろうといわれている。
この弥山を含めた山塊は、『出雲国風土記』では、朝鮮半島にあった新羅から引き寄せ国引きしたものとしている。また一方、中世神話と呼ばれる鰐淵寺に残る伝説には、スサノヲが大海に漂う霊鷲山(りょうじゅせん:ブッダが法華経を説いた山と伝わる)に縄をかけて引き寄せたとあり、鰐淵寺にとっても極めて神聖な地であったことがうかがわれる。


弥山さん頂上   35.405363, 132.703386
みせん広場駐車場 35.397321, 132.693137
稲佐の浜     35.400364, 132.672450
阿須伎神社    35.398974, 132.715621(御山神社遥拝所)
影向山松林寺   35.397335, 132.680309(弥山大権現)
鰐淵寺      35.423189, 132.748940




人が立ったまま入れる大きさの小屋の形をしたコンクリート製の建物

弥山さん山頂の御山(みせん)神社跡

しんたいさん 出雲みせん神社と書かれている

阿須伎神社境内にある立て札

松林寺境内にある高さ2メートルほどの小社

弥山大権現の社

弥山さん山頂にある崩れた石垣の跡

弥山大権現の石垣と思われる