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白鳥の集った大岩の上に建つ神社

はくちょうのつどったおおいわのうえにたつじんじゃ 

見る知る出雲エリア平成時代

山陰地方には冬が近づく10月末か11月初めごろに、シベリアから白鳥が飛来して来る。『古事記』の国譲り神話に、タケミナカタの神が大岩を投げるシーンがあるが、その大岩に白鳥が群がったことから、とりや(鳥舎)と呼ばれ、後にそれが、なまって鳥屋(とや)の地名になったという伝承が出雲にはある。その場所は、出雲平野を流れる斐伊川が宍道湖の方へ大きく折れ曲がるあたりの東側の地域である。


そこに広がる田んぼの中に、タケミナカタを祀る鳥屋神社が鎮座している。鳥屋神社は出雲国風土記や延喜式にも記載される古くからの神社である。
『古事記』にタケミナカタが登場するシーンは、『出雲の国のいなさの小浜で、オオクニヌシが高天原からの使いのタケミカヅチと対峙し、オオクニヌシの国を高天原の天照大神に譲るかどうかの交渉していた。そこで、オオクニヌシの息子であるタケミナカタにも国譲りの意見を聞くことになった。その時、タケミナカタが千引の大岩を手の上に差し上げて来て、タケミカヅチに「力くらべをしよう。私が先に、その手を掴むぞ」というと、そこに差し出されたタケミカヅチの手を掴んだ。しかし、その手は氷のようになり、鋭い剣の刃のようになったので、タケミナカタは恐れて退いた。今度はタケミカヅチがタケミナカタの手を取ると、その手を若い葦の茎を押しつぶすようにして投げ飛ばしたためタケミナカタは逃げ出し、諏訪湖のほとりまで逃げてタケミカヅチに捕まって、諏訪の地を離れないことを誓い、国譲りに同意した。』という部分である。
『古事記』には「千引の石」とあるが、これは千人の力で引かなければ動かせないほどの重く、大きな岩のことで、その千引の大岩が海に立ち、そこへ多くの鵠(くぐい)つまり白鳥が群がったので、里人達はその風景がまさに鳥小屋のように見えたので、この地を、とりや(鳥舎)と呼び、後に鳥屋となったというのである。境内の解説板には、その大岩の上に鳥屋神社が建てられた。とあった。鳥屋神社の前の田んぼで群れをなす白鳥の写真も載せられていた。白鳥はラムサール条約湿地である宍道湖と中海へ毎年2000羽ぐらい飛来しており、その一部が宍道湖に隣接する斐川平野にもやってくる。
また白鳥は出雲国風土記にも白鵠として載っており、古来より飛来があったことがわかる。また、古代には、出雲国造が新たな代に変わる時、上京して時の天皇に剣や鏡、馬などと共に白鳥を献上していたことも分かっている。また『日本書紀』には、言葉の話せなかった皇子ホムツワケのために出雲で白鳥を捕らえる物語があるが、その白鳥の捕らえられた場所は、鳥屋神社から6キロメートルほど東南にある神代神社あたりと考えられている。また鳥屋神社から2キロメートルあまり南に求院(ぐい)という地区があるが、ここの地名は鵠(くぐい)が訛ったものとも言われている。出雲は白鳥の逸話の多いところなのだ。
境内を巡ると、龍王大神の祠があった。斐伊川沿いには洪水のあった場所に八大龍王の碑がある。享保2(1717)年にできた松江藩の地誌『雲陽誌』にある鳥屋神社の並びには、大川 広さ二百九十間、土手 長さ四百八十・根置十五間・高さ二間一尺などとあり、当時の鳥屋神社近くの斐伊川の川幅は500メートルあまり、土手の長さが約900メートルもあったことが分かる。その土手の高さは4メールほどである。現在の土手は、下に建つ家の屋根より高く8〜10メートルはあると思えるので、やはり当時は、たびたび土手が切れたのではないかと思われる。また『式内社調査報告』によると同社の棟札に再興と記された棟札が寛永二年(一六二五)、慶安三年(一六五〇)、寛文二年(一六六一)、享保十一年(一七一六)、宝暦十年(一七五一)、 安永五年(一七七六)、寛政五年(一七八九)と七回を数えられる。これを見ても神社は斐伊川のたびたびの大洪水に飲み込まれていたようである。
さらに遡って風土記の時代には、入海(古宍道湖)が迫り、氾濫を繰り返す斐伊川によって沼地だったのではないかと想像するが、洪水の繰り返される場所に、国譲りで重要な神を祀り、地域の守護神としたのではないだろうか。
そんな事を考えながら境内を巡っていると、じっと私を見つめる視線を感じてあたりを見回すと、びっくりするほど大きなカエルが私を見ていた。まさか本物ではと思えるリアルさで、恐る恐る(靴の先で)突いてみたらどうも陶製の作りものだった。それにしても何故ここに!と調べてみると、タケミナカタの祀られる長野県の諏訪大社(上社)に、蛙狩(かわずがり)神事というものがあった。その由来は、諏訪明神(タケミナカタ)が、人々が悩み苦しんで心乱れている原因になっている蝦蟆(がま)神を退治した。その時、四海が静まり、陬波(すわ)という字が波陬(なみしずか)と読めた。という伝説なのだそうだ。ところ変われば蝦蟆蛙(がまがえる)の神などもいるとは驚いた。この神事、諏訪の七不思議の一つだそうだ。
(ライター 三代隆司)

参考文献
斐川の地名散歩     著者 池田敏夫 発行 昭和62年 発行者 斐川町役場
式内社調査報告第21巻 編集 式内社研究会 昭和58年 出版者 皇學館大學出版部

この 白鳥の集った大岩の上に建つ神社 に関してGoogleMapで検索できる緯度経度を以下に示します。

鳥屋神社     35.3930968, 132.7521658
神代神社     35.378541, 132.861295
諏訪大社(上社) 35.998369, 138.119144




広い田んぼの中に鎮守の森が見える

斐伊川土手からの鳥屋神社の杜(中央奥)

立派な神社の名の刻まれた石製の門柱

鳥屋神社

石の祠の中にある御影石に龍王大神と刻まれている

境内にある龍王大神の祠

白鳥の群れは斐川平野の黒土の田んぼの中にいる

斐川の山々を背景にした白鳥の群れ