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出雲の王家の谷

いずものおうけのたに 

見る知る出雲エリア弥生時代

出雲市大津町。この地は「出雲の王家の谷」とも呼ばれる魅惑の場所である。小さな谷をぐるりと取り囲み、所狭しと27基以上もの弥生から古墳時代の墳墓群が連なるさまは異様であり、王家の谷と呼ばれるゆえんだと感じる。そこに不思議な形の墳墓が6基も存在する。それは、四隅突出型墳丘墓。方形墳丘墓の四隅が突出したヒトデのような形、とよく説明されるが、 ちょうどコタツの四隅の角を細長く伸ばしたような形でもある。


産声を上げたコタツ
弥生時代後期、紀元後2世紀頃。日本列島の各地で、地域独特のオリジナリティあふれる墳墓が現れた時代。そのなかで、この四隅突出型墳丘墓は、山陰地方・北陸地方に現れた。この変なコタツ、いったいどこで生まれたのか。その地をめぐっていま、広島三次地方とされていた定説が大きく塗り替えられようとされている。初期の一人用コタツである小型の四隅突出型墳丘墓が、相次いで山陰地方で発見されたからである。特に弥生時代から中世にかけて複数の遺構が存在する青木遺跡(出雲市)で、最古の四隅突出型墳丘墓が出土したことが大きな鍵になっている。弥生時代中期後葉、紀元前一世紀。出雲の地では、こうしたコタツが産声をあげていたのだ。
その後、四隅突出型墳丘墓は規模を大きくしていった。共通して墳丘の周囲には、貼り石と立石が廻らされるようになる。ちょうどコタツ布団の上に幾重かにコタツ布団を掛けているような形だ。コタツだったら熱を逃がさない省エネの工夫だが、実際は土木工事で造られた墳丘墓。しかし築造者が惜しみなく当時の高度な土木技術を投入できるようになった姿だ。
西谷3号墓と9号墓。四隅突出型の中でも超大型。突出部を含めると一辺50メートル以上、復元された墳丘の高さも3号墓で約4.5メートルと推定される。全国の弥生墳丘墓でも屈指の大きさだ。
同時に、西谷墳墓群の四隅突出型墳丘墓は、出雲での弥生墳丘墓のモデルタイプであった。すでに細部にいたるまで出雲のコタツの形は「定形化」されていたのである。

墳丘に眠る人々、ともに眠るものたち
さて、いかに大きいとはいえ、このコタツは墓である。西谷墳墓群にはいったいどんな人物が眠っているのだろうか。出雲の首長が埋葬されている、と考えられてはいるが、今では推測する(あるいは妄想する)ほかはない。
ただ、ここに面白い発掘の成果がある。西谷3号墓では中心的な2つの埋葬施設のほかに、取り囲むようにあるいは付き従うように複数の埋葬施設がある。ひとつのコタツを仲良く(あるいは反目しつつも、また、あるいは渋々ながら)何人かで、死後の棲家にしたのである。
また中心に埋葬された二人はガラス製または碧玉製の玉類で胸元を飾られ、一方は鉄剣が添えられていた。二人の眠る敷布団は真っ赤な水銀朱だ。そして埋められた二つの棺。時期は違うが、棺の上に大量の土器を置かれたのは同じ。一方は柱の痕跡まであった。何かの儀式を執り行っただろうが、いったいどんな儀式なのかは推測するしかない。その後、大量の土器は二度と使えないように壊された。埋葬された人のためにだけ作られた土器。
それは山陰地方のものだけではなく、特に吉備地方の特殊器台・特殊壷も混ざっていた。3号墓だけでなく、2号墓も同様。さらに付け加えると、玉づくりの地として今も有名な出雲であるのに、ここで死者が身に着けていた管玉は北陸産の碧玉製だったのだ。
もちろんこの人の生前の好み、ではない。「あの人は北陸の玉を愛していたから…」と偲べる程、弥生時代には玉はアクセサリーとして一般的ではないのだ。いかにセレブリティであったにせよ、玉は権威の象徴だったからだ。さらに言えば、墓ですら、その人の権力を示すもの。大きな墓を造るにはたくさんの人手と特別な技術が必要だ。その権力者=出雲の首長と、吉備・北陸・丹後などとの深い交流がわかる。
とりわけ吉備地方でしか出土しない特殊器台が出土したことから、西谷3号墓に埋葬された人物と吉備の権力者との密接なつながりを伺うこともできるのである。あるいは出雲と吉備の政略結婚などもあったかもしれない。吉備から出雲へ輿(こし)入れした首長の娘や妹、あるいは息子や弟が2号墓や3号墓に埋葬されたのだろうか。

ここで完全な妄想が広がる。
ある日の吉備。出雲に嫁いだ一族のひとりの死が伝えられた。吉備の一族の長が配下に命じる。
「彼女(彼)の葬儀を、吉備の女(男)としても執り行うよう、出雲に連絡した。特殊器台を作れ!」
特殊器台を作成する専門の職人たちは、命じられたように特殊器台をいくつか作り、一族の長へ報告する。それをうけて、一族の長は弔問の使者=吉備の代表者を派遣する……。
さて、この吉備地方特有の特殊器台、実際は高さ1メートルはある円筒形をしている。大人が抱えて運ぶにも一苦労するもので、しかも墓にだけ用いる特殊な土器だ。しかも縄文土器よりは硬くなったとはいえ、弥生土器もコワレモノ。現代なら、何重かにプチプチで土器をくるみ、箱にコワレモノ扱いシールを貼ってくれるよう運送業者に頼んで送ることだろう。馬車も牛車もないこの時代、誰が中国山地越えて運ぶのか…???船で瀬戸内海から日本海へむけて運ぶのか???
もっとも、専門の職人が出雲へ派遣され、出雲で作成したのかもしれないが。近年、2号墓で出土したガラス製釧(くしろ)(腕輪)に注目が集まっている。このガラスの腕輪、調べてみると中国製であった。いま現在同様のものは、国内でも一桁(けた)しか出土例がない。中国山地を越えて吉備へ。日本海を海伝いに北陸へ。そして。日本海を越えて、遠く中国まで。古代出雲の人びとは案外社交的で、各地域から人びとが訪れ、そのつながりを大切にしていたのかもしれない。


参考文献:
『古代の出雲を考える2 西谷墳墓群』出雲考古学研究会 黒潮社 1980
渡部貞幸「弥生墳丘墓における墓上の祭儀 ―西谷3号墓の調査から―」島根考古学会誌10 島根考古学会 1993
『四隅突出型墳丘墓の謎に迫る』出雲市教育委員会編 ワン・ライン 1995




こたつの裾

こたつの裾

古墳の上に4本の柱

古墳の上に4本の柱

出雲市を見渡す丘の上

出雲市を見渡す丘の上

これから整備の第6号墓

これから整備の第6号墓