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八雲立つ風土記の丘

やくもたつふどきのおか 

知る松江エリア古墳時代

「おーうぇ」
“出雲”の名付け親とされるヤツカミズオミズノノミコトが、国引きの大仕事を終え叫んだ地。意宇(いう)平野一体(現在の松江市意宇地区)は、『出雲国風土記』でも最初に出てくる郡(こほり)である。
神の隠(こも)る山“神名樋野(かむなびぬ)”とされる茶臼山(ちゃうすやま)がそびえ立つ。その麓(ふもと)には田畑が広がり、多くの古墳が点在する。


古墳が多く点在する松江市南部の意宇地区。そこを見渡す「風土記の丘」には八雲立つ風土記の丘展示学習館があり、その屋上からは意宇平野一帯を見渡すことができる。
館内には、国庁が置かれたころの意宇(おう)一帯の風景が再現されているジオラマがある。ジオラマを見ながら左側の展示物へと視線を移すと「見返りの鹿」と目が合う。これは、近隣の茶臼山麓の埴輪(はにわ)窯跡から発掘された埴輪だ。そのほかにも、さまざまな表現をしている人物や馬具のついた馬の埴輪が展示されている。その当時、埴輪作りは重要な仕事の一つだったのだろう。子持壷(つぼ)もしかり。大きな壷に小さな壷たちが均等に、接着面もきれいに仕上げてある。豪族の墓に飾るべく作られたそれらは、一つ一つが細部までていねいに作られており、職人たちが埴輪に丹誠を込めた事がうかがえる。

学習館の北側に位置する岡田山古墳のまわりを踏みしめるように歩いてみる。古墳の脇にはススキが広がっており、ここだけをみると、古代の出雲ではないかと錯覚する。

山代二子塚(やましろふたごづか)古墳へと足をのばす。風土記の丘から車でおよそ5分。風土記の丘周辺とは違い、この辺りには学校、民家、スーパーなどがひしめいている。その中に「でん」と構える古墳。出雲最大の前方後方墳だという。街の中の古墳。いやいや、古墳からしてみれば、まわりにいまの街がつくられたのだろう。資料館のジオラマを思い返す。田畑の中にある古墳、そのまわりの街。「古墳は権力者の象徴」という見方も、古墳の上に立ち視線を変えてみると、「古墳が街を守っている」と思うようになる。
この古墳では断面を見ることができる。一見、土を盛っただけに見える古墳。しかし、ここを見るとその考えは一気に払拭(ふっしょく)される。黒い土と赤い土を幾層にも積み重ね、水はけをよくしているのだという。勝手な想像をすると、古墳造りはつらい労働であっても、そこで働く人はみな尊敬の念をもっていたのではないだろうか。この地を治めた人物が、安らかに眠れるよう、民達が技術の粋を集めて古墳造りに参加したのではないだろうか。それ故に、「古墳が街を守っている」と感じるのだ。

もう少しこの空気を感じたくなり、茶臼山の麓を歩いてみる。この辺りの道は当たり前のように狭い。舗装路にはなっているものの、車がやっとすれ違えるような道。その不便さが自然に感じられるのは、すでに気持ちが古墳時代に入り込んでいるのだろうか。




「見返りの鹿」は何を見つめる?

「見返りの鹿」は何を見つめる?

銘文入の刀剣が見つかった岡田山一号墳

銘文入の刀剣が見つかった岡田山一号墳

街の中にとけ込んでいる山代二子塚古墳

街の中にとけ込んでいる山代二子塚古墳

珍しい古墳の断面。古墳造りの技術は奥が深い?

珍しい古墳の断面。古墳造りの技術は奥が深