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田和山史跡公園

たわやましせきこうえん 

見る知る松江エリア弥生時代

松江市の病院移転により、その事前調査で発掘された田和山遺跡。20棟を超える住居跡が見つかり、山頂からは数十本の柱の跡。そして、山頂を守るように見つかった三重の「環濠(かんごう)」。そこにも垣間(かいま)見せたのが“出雲独特”なものだった。他の地区で発見された「村を守るための環濠」ではなく、山頂部だけを守るように掘られたのはなぜだったのだろうか。


高さ30メートルはある田和山史跡公園。山頂へ一気に進む前に、手前の大きな“うねうね”が気になる。これは、「環濠」と呼ばれる古代の濠(ほり)らしい。大人一人がすっぽり入る溝が、山頂を囲むように3本(外側2本は不完全)掘られている。吉野ヶ里遺跡などに見られる環濠は、その内側に住居が設けられているケースが多いという。しかし、田和山遺跡では、住居は環濠の外側に存在するのだ。それには有力な説が二つあり、住居と思われる部分は「お城のような場所になっていた」、「祀(まつ)りの場所だった」というもので、田和山に立って見ても見当がつかないのである。
環濠では、つぶて石という投石用の石と、石の矢じりが多く見つかっている。投石用の石は拳(こぶし)より大きく、こんなものが飛んできたら恐いだろう。頭にでも当たったら大怪我どころではすまないのでは・・・。戦いの準備でおわったものか?それとも、実際に戦いがあったのか?謎は深まるばかりだ。

環濠の謎が気になりつつも、山頂へと歩を進める。ここからの景色は、北側に松江市全貌(ぜんぼう)が見渡せる。もちろん宍道湖も見渡せるのである。天候の良い日には、東方の先に大山も見えるのだという。頂上には柱の跡があり、柵(さく)であったろうと思われる部分と、9本の柱が規則的に並んでいる部分とがある。一説では、それは建物があったわけではなく、神様の依代(よりしろ)ではないかとされている。そして、それは大社造りの源流という驚くべき説もあるので、興味がつきない。

この田和山遺跡には、その北側ゾーンと西側ゾーンに、住居跡が認められている。山頂から下りながら、北側ゾーンを眺め、また上りながら西側ゾーンを見学できる。
北側ゾーンには弥生時代のものと思われる竪穴式住居跡と堀立柱(ほったてばしら)建物の跡が、それぞれ8棟と11棟、そして西側ゾーンには、堀立柱建物の跡が5棟分発見されている。特に西側ゾーンの堀立柱建物はやや大きかったこともあり、首長層の住居とみられている。長方形で長辺側が7本、短辺側には3本の柱が立っており、その間隔は中心に集まるにつれて狭くなっている。さらに、棟が外側にいくにつれて反りが施(ほどこ)されているなど、技術的にも高く、また強度のことも考慮されている。

山あり谷ありの田和山史跡を一周すると、弥生時代の空気を感じる事ができるかもしれない。




調査後整備された田和山史跡公園

姿を現した田和山史跡公園

謎の三つの環濠

謎の三つの環濠は長さ200メートルに渡る

竪穴式住居跡

竪穴式住居跡には柱の跡や焼けた土が

環濠(かんごう)内の「つぶて石」

環濠(かんごう)内にちらばる「つぶて石」