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相撲生人形 野見宿禰と当麻蹴速

すもういきにんぎょう のみのすくねとたいまのけはや 

歴博を見学

<b>ザ・フリー・プレスの記事紹介</b>
1893年1月11日、水曜朝刊
力士達/フレデリック・スターン氏より、美術館へ素晴らしい贈り物/日本のリアルな彫刻作品の一例/東洋芸術の偉大な勝利

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有名な日本のアーティストの彫刻家集団、安本亀八の巨大なレスラーの「タイマノケハヤ」(暗色)と「ノミノスクネ」(白)が現在、美術館で公開中である。これは、日本で一番初めに開催された相撲のシーンを表現しているものであり、紀元前29年の垂仁天皇の時代の出来事である。この町のフレデリック・スターンが東京を旅行していた時、広場にこの彫刻が展示されていたのを初めて見た。彼はこの注目すべき宝物を入手し、持って帰り、デトロイト博物館に寄贈した。たった二日間だけ公開されている。

この作品は、可能な限り現物ににせてつくられている作品である。この作品は白い大男が彼の敵を投げている動作を切り取ったものである。これらの顔の表現は、充分に意味を持つものである。

この争いの重要なシーンであり、ともに注目されるべきは、彼の目的を達成することに成功するかどうか決るというときの、ノミノスクネが対峙する不安感が表現されている点である。対するタイマノケハヤは、投げ飛ばされるポジションにある事によって、抵抗ができなくなっていることへの荒々しい悲哀と絶望が表現される。
彼自身を守る最後の試みとして、彼はスクネの手首と、後ろ側では廻しを握っている。筋肉の張りと肌の質感は、リアリズムそのものである。この争いで、ケハヤのつま先についた泥でさえも。生きているかのごとく作るための努力はアーティストによって割愛されなかったし、芸術上での勝利に対する意見はゆらぐことはないだろう。
ただひとつの質問は、一体どのようにこのようなリアリズムがアートとして成立しているかということである。相撲の試合はひとつの教訓であり、その再演への同時性である。スクネはケハヤより洗練された見栄えのする人物である。野蛮な力に対する知性の勝利でもある。

この相撲試合における歴史や伝統とのつながりは以下のようなものである:
スイニン天皇の統治の7世紀、紀元前_年、大和の国に、力自慢の大男、タイマノケハヤという黒い肌の男がいた。彼は彼の強さを自慢し、かなう者がないと信じていた。彼の強さを試す見地から、彼は首都へ旅してきた。そして、御前で、国中のあらゆるものより、力が勝っていることを認めさせようとした。天皇は、この力自慢の__の試合に興味を持ち、力自慢の者達へ布告を出し、ケハヤと出会うことになった。
これを聞いた出雲の国の人々は、白い肌のノミノスクネを送り出した。彼はこの挑戦を受け、このふたりの大男の試合は、御前にて開催され、天皇みずからが行司となることになった。

この話ではスクネが高慢なケハヤを負かし、彼を投げ飛ばして、背骨を折り、その場で死んでしまう。勝利者スクネは、皇居の守護となり、しばしば天皇に拝見を賜った。
これが一般的な相撲の起源の話である。相撲は千年以上もポピュラーな娯楽としてあり、貴族達は競ってそれぞれの応援する力士達のパトロンとなった。
200年以上の間、相撲協会は2年に一度、東京で力比べを行う、10日間も続き、勝利によって俸禄が与えられる。
700人の力士が、国立協会に登録しており、厳格な規則によって治められている。プロフェッションは世襲的である。スクネは最初の守護神であり、その子孫はいまだ協会内で公的な役割を担い、主な権力を持っている。




全体像(高さ170cm、横幅150cm、奥行き160cm)

蹴速アップ

宿禰アップ

後ろ