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スサノヲの御子神

すさのをのみこがみ 

見る知る松江エリア平成時代

スサノヲには子どもといえる神々がいる。その一つはアマテラスとの間に誕生した神々である。姉神であるアマテラスと喧嘩になりそうになり、そんなことはしませんよと、行った誓(うけい)という儀式によるもので、アマテラスが身につけていた勾玉の飾りをスサノヲが噛み砕いて息を噴き出すと、五柱の男神が生まれたというものである。一方、オロチ退治の末に結ばれたイナダヒメとの間に生まれた七柱の御子神たちがいるのである。


その御子神は男神が五柱、女神が二柱である。その中でも一番長い名前を持つ男神を訪ねて松江市秋鹿(あいか)町にある多太神社に向かった。宍道湖の北側にある湖畔から2キロメートルほど谷筋を入ったところにあった。
車道からわずかな階段で境内へ、鳥居をくぐって入る。境内をぐるりと一周して拝殿の前まで戻った。どうもいつもの神社とは様子が違っているような、何かがおかしい。
そう思って目の前のある拝殿のしめ縄に目がいく。その太さが出雲地方の一般的な神社より細いのだ。そういえば、拝殿だけでなく鳥居のもそうなのだ。海辺の神社では、このような細さなのだが。さらに手水舎の水の出口、これは龍をかたどったものが多いが、なんとここは亀である。初めて見たかも知れない。その亀は、浦島太郎などに登場する後脚から尾にかけてスカートを履いたような亀で、どうも海亀を表現しているようなのだ。さらに、拝殿の軒下には風化の進んだ龍の木製の浮き彫りがあって、しげしげと見入ったが、少し離れて屋根を見上げると、屋根の上の大屋根の破風の下にも何か彫り物があるが、なんだろうと見ていると、なんと龍と同じように手の込んだ鹿の彫り物?と思ったが、顔に髭、尾が長い。まさか麒麟か。麒麟だとしたら神社で見るのは日御碕神社以来だ。それにしてもなぜ麒麟。
そして、さらに拝殿に向かう左の榊(さかき)と思われる高さ3メートルほどの木には海藻がぶら下がっているだ。良く見ると気泡のついたホンダワラと思える海藻が干からびて黒くなったものが何本も吊り下げられていた。海から山越えし直線にしておよそ3キロメートルはあるのに海藻がある。これは潮汲みの痕跡なのだと思う。吊り下げられた7〜8本の海藻が長さや、干からびた様子が同じようであるので、親族がどなたかの四十九日の忌明けに日本海で潮汲みをしてお参りされたのだろう。車の無い時代からの風習であろう。まるで海辺の神社のようだ。
本殿もよく見ると、出雲地方特有の大社造ではなかった。郷土誌を読むと、変態春日造というものらしい。大社造も春日造も妻入りは同じなので、ちょっと見には違いが分からないだろう。良く見ると大社造は妻入り側の右半分に階段が上がって来くるかたち。こちらの春日造は妻入り面の幅いっぱいに階段とその屋根が付いている。
いつもと異なる雰囲気の境内で、前置きが長くなってしまったが、祭神は、衝桙等乎而留比古命(つきほことほるひこのみこと)という長い名前で、出雲国風土記の秋鹿郡多太郷(ただのさと)に登場する。スサノヲの御子とされており、国巡りをして時に、この土地にやってきて言うには「吾が御心(みこころ)照明(あか)く正真(ただ)しく成りましぬ。」そして、吾はこの土地に鎮まりましょう。と言ったので、多太と地名が付いたという。鉾(ほこ)という名前から武神と考えられている。
江戸時代の松江藩の地誌である『雲陽誌』には、「社の中に神明の乗りきたりたまう船なりとて長さ七尺、横四尺五寸の船石あり」とあり、それがもう一柱の祭神、稲背脛命(いなせはぎのみこと)の乗った船とされているそうだが、まず目についたのは、本殿の左側隣りあった大きな岩。大きさは2メートル四方、高さが1メートル20センチほどはある。岩の上には六角柱をした社日碑が立っている。社日信仰は、もとは中国にあった風習で、土地または地域の守護神である社を祭り、作物の豊穣を祈願したとされている。六角柱には神々の名が刻まれている。
しかし、『雲陽誌』の石の大きさより大きいようにも思えて、境内を見回すと、鳥居の右手の先の方に、地面に平べったい石があって近づいて見ると、大きさも良さそうである。この稲背脛命が祀られるようになったのは、神社の変遷の中で登場したものらしく、神社の敷地整備で山を削ったときにでも大石が出現して、そうした神を祀ったのだろうと考えられている。
ここでまた興味深いものを発見した。本殿を囲む石造り垣根を見ていると、麹師だれそれ、〓師だれそれの文字が刻まれていたのだ。蔵人の字もあって岡本酒造研究会と刻まれた石柱があった。奉献は昭和35年。ここは、秋鹿杜氏の本拠地だったところだった。江戸時代より、松江や出雲へ杜氏として出稼ぎに出ていたのが、その能力を見込まれて、広島や岡山などまで冬季の酒造りに出かけた人々が居た地域である。大正5年には組合員185名で秋鹿杜氏組合が結成され、大正14年には450名に拡大、その年に出雲杜氏組合となっている。麹師は「だいし」とか「こうじし」と呼び麹を調合する役職、〓師(もとし)は酒の〓を作る役。これらを束ねるのが杜氏(とうじ)である。谷間が並んで、それぞれの川が宍道湖に注ぐという地域であるので、狭い田畑の収穫だけでは出雲からも松江城下からも少々離れた場所でもあり、生業(なりわい)も大変だったのだろう。中国地方の酒造りを支えた地域である。

※〓は酉へんに元


多太神社   35.488302, 132.945477




神社の背後の山肌に土砂崩れ防止のコンクリートが広がる

多太神社の遠景

渦巻き模様のような上に髭ある鹿のような彫刻

麒麟?の彫刻

畳1帖ぐらいの大きさの平べったい一枚石

神の乗った船石

文字は来待石のような砂岩の石柱に彫られている

石製垣根に麹師の文字