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遠くから出雲を遥拝(2)

とおくからいずもをようはい そのに 

見る知る出雲エリア平成時代

三屋神社の由緒書というものが、地元で編纂された『一宮の今昔 給下編』に載っていた。そこには、「出雲国造の祖先の出雲臣や神門臣等が此地に大神を奉斎した神社を創建して、そのご神地を定め、神戸を置いて、大神の宮のご料を調進することとなったので、社号を大神の宮垣の御門と、その神戸とに因んで、御門屋社と名づけたものである〜」とあって、この地域の重要性を物語っている。


全国神社祭祀祭礼総合調査によると、三屋神社は旧社地(松本1号墳)の時代の祭りの時には、現在の峯寺のある山、峯寺弥山の北嶺にある井草(いが)神社で潔斎をして祭りを行っったとされており、峯寺弥山を風土記に記載された伊我山としていること、伊我山にオオクニヌシの御魂が降ったとしていることなども書かれている。オオクニヌシのゆかりの地であることが強く表されている。
また、『出雲国風土記』の三屋郷に隣接する熊谷(くまたに)郷は、オオクニヌシの妻であるクシナダヒメが赤ちゃんを産もうと来たところであるともいわれている。
また、三屋郷のすぐ近くにオオクニヌシが八十神を討つために城を築いた山があった。『出雲国風土記』の三屋郷に隣接する斐伊(ひ)郷の城名樋山(きなびやま)である。現在の雲南市役所の後ろにある標高100メートルほどの山である。この「なび」は神が隠れこもった神名火山(かんなびやま)と同様の意味があり、攻めてくる八十神に対して城柵を作って身を隠したと考えられるようだ。鳥井原の斐伊川を挟んだ向かい側に、オオクニヌシの国防の要衝となる城があるのである。三屋郷とその周辺一帯がオオクニヌシにとって重要な地であったことが見てとれる。
『出雲国風土記』の研究者の故関和彦氏に「斐伊川を挟む城名樋山と峯寺弥山の山が、まるで門のように見えませんか。」と言われたことがある。その関氏によると、神門郡の神門や仁多郡の神御門、そして今回の三屋郷の御門も、古代に出雲国造が天皇に神賀詞(かんよごと)を奏上するため奈良の都に向かう道筋にあたるという。確かに斐伊川を遡上して行く道筋である。出雲大社を出発して約8キロメートルで神門の鳥居、そこから約20キロメートルで三刀屋の御門の鳥居、さらに35キロメートルほどに御坂山の神御門の鳥居、初日は足慣らし、2日目は三刀屋に宿泊、3日目は御坂山の神御門の鳥居の手前にある三沢に宿泊したのではないか、三刀屋から三沢までなら約20キロメートルである。200人にも及ぶ神官の行列が、それらの鳥居をくぐって行ったのであろうか。それにしても、古代の宿泊地は出雲国造と神職をもてなす緊張と宿泊準備など極めて大変な事であっただろう。
さて、最後に気になる1号墳のあの奇妙な景色であるが、説明板の後方には石棺のようなものまであるのだ。これは、三屋神社がこの1号墳の上に鎮座していたことがあるという伝説があり、その名残なのかもしれない。などと思いつつも後日念のため雲南市文化財課に電話して聞いてみた。すると、「あー、あれですね。私も他の職員から聞いた話で申し訳ないのですが、あれがスサノヲの墓だと称する人物が置いた祭壇なのだそうです。」というので、「えっ?あの岩がスサノヲの墓なんですか。」というと「岩ではなくて、1号墳がスサノヲの墓ということで」とのこと、大岩も石棺のようなものも祭壇の一部ということらしいのだ。「それが設置されたのは、明治とか江戸とかの時代ですか」と聞くと、「いえいえ、昭和のことです。」とのことであった。昭和37年の発掘調査の実測図には描かれて無いので、大岩が置かれたのは古墳の古さからして、けっこう最近のことなのだった。

「一宮の今昔 給下編」 平成4年3月8日発行 編集・発行 三ツ和会(給下老人クラブ)

三屋神社        35.300479, 132.878186
松本古墳群1号墳    35.298939, 132.876483
松本古墳群2号墳    35.298025, 132.877059
城名樋山 35.3106141, 132.901019
鳥井原の土手      35.3008248, 132.887702
峯寺弥山山頂      35.3108916, 132.877143
山にはさまれた下流を望む35.302904, 132.898059




二つの川の周囲に田畑のある平坦な土地がある

城名樋山から手前が斐伊川、奥が三刀屋川

川の土手から畑、田んぼの順で向かいの山裾まで続く

正面の峯寺弥山と麓の鳥井原の景色

頂上には木製の高さ2から3メートルの鳥居がある

峯寺弥山山頂の鳥居の奥に出雲大社

斐伊川の土手から山に挟まれた形の下流を見る

左の峯寺弥山と右の城名樋山の作る門