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出雲国の機織り発祥の地

いずものくにのはたおりはっしょうのち 

見る知る出雲エリア平成時代

歴代の朝廷に「麻布の機職として仕えこの地に住まいした一族によって創建されたと伝えられる」と島根県神社庁のホームページで紹介されていた幡屋神社(雲南市大東町)。社地は、宮内谷という地域で、小高い山を背にして神社はあった。鳥居の横にあった神社の由緒書からは、社地が移り変わったことや他の社と合祀された歴史があって、なかなか複雑な歴史があったように思われた。


石段を上がって山門をくぐると拝殿があり、その後ろにあった本殿は大社造ではなく出雲地方では稀な流造(ながれづくり)で建っていた。なぜだろう。祭神が国津神ではなく、天津神の瓊々藝尊(ににぎのみこと)だからだろうか。神社の由緒書には、「当社の古伝によると、古代出雲地方に住まいした忌部氏には二流あり、一方は松江市玉湯町玉造を中心に曲玉制作を手がけ、もう一方は、ここ幡屋において機織りに携わったとある。よって、当社の起源は、忌部氏の末裔が祖神と崇める瓊々藝尊をお祀りしたことにはじまる。」とあって、出雲国内における機織りの発祥地でもあった、としている。どこかから出雲へ来た一族なのだろうか。

この社には元宮があるようで、古来霊社地とされ磐座があるという。この幡屋神社からさらに奥にある宮山の中腹とある。幡屋神社から右手の谷を奥へ1キロメートルほど進むと、車では行き止まりとなり、そこに元宮と大きく墨書きの板が立てられていた。さらに、元宮境内の磐座の見取り図もあってわかりやすい。さっそく山道を上がり、100メートルも行くと花崗岩を切って作った石段が現れ、社地があったと想像できる。上がりきると平地の奥に門のように並んだ2本の石柱が立っており、右は奉献幡屋神社元宮、左は幡屋大神磐座と彫られていた。その向こう正面に大きな磐座が見えている。磐座の前には大磐座と書いてあり、その脇には「上の鏡岩がご神体です。」と小さく書かれていた。見上げると高さ3メートルほどもあろうか、角が取れ丸みを帯びた大岩がある。これが鏡岩というご神体。後ろに回り込むと岩全体が見えて、他の岩の上に乗っていることがわかる。岩は先の石段と同じ花崗岩である。

このご神体の右手に船頭岩、船子岩とされる1メートルに満たない高さの岩が立っていた。これが、ご祭神が乗って来たと伝説にある船の乗り手を示す岩だ。もう一つ船岩というが境内の左側に描いてあったと思い、鏡岩から左手の谷の方へ行って下を覗いてみた。谷の底のあたりに白く岩のような物がみえるが、斜面が急でここから降りるのは難しい。改めて、麓の元宮を示す看板まで降りて、谷に回り込んでみることにする。休耕田の端から谷に入ってすぐ、長さ8メートルほどの靴底のような形をした平らな面を上にした岩が横たわっていた。そばに船石と書かれた板も掲げてあった。「ご祭神が当地にお越しになる際に使用された船」と小さく書いてある。ご祭神とは、どのご祭神だろう。幡屋神社のご祭神は瓊々藝尊以外に四柱。他に境内社、境外社などもあって10柱以上になる。
いろいろ調べてみたら、この船石は、幡屋神社が一度合祀されたことのある八幡宮の祭神が岩船に乗って来たという伝説があり、これに乗って来た祭神とは、幡屋神社の主祭神でなく配祀神の誉田別命(ほんだわけのみこと)なのである。

それにしても、幡屋神社の近くには、神様が麻の種を植えたと伝わる高麻山もあり、古代の機織がなされた地を彷彿とさせる。幡屋神社の境外社になっている五人若宮神社に祀られる五伴諸神(いつとものおのかみ)は、瓊々藝尊の降臨に従った五神である。その中の天太玉命(あめのふとだまのみこと)に従うさらなる五神には、出雲玉作の祖の櫛明玉(くしあかるみたま)命がおり、同時に麻や穀(かじ、楮)を植え、阿波国(現在の徳島県)を開いた阿波忌部の祖である天日鷲(あめのひわし)命がいる。

こうしたことからすると、幡屋神社の近くには、『出雲国風土記』に阿波から来たと解釈できる神、阿波枳閇委奈佐比古(あはきへわなさひこ)命が乗って来た船と言われる船岡山もあり、また和奈佐比古(わなさひこ)命を祀る船林神社や和奈佐神社がある。幡屋神社の左手後方にある幡屋三山の峠を越えると和奈佐神社があり、その先は出雲玉作の地、玉造に至る。この辺りは古代に瀬戸内海に面した阿波国と深いつながりがあったのではないだろうか。




本殿を横から写した写真

流れ作りの本殿

大磐座と書いた板の後方に高さ2〜3メートルの石が複数ある

幡屋神社元宮の大磐座

高さ1メートル弱の円筒形のような形の岩

幡屋神社元宮の船子岩

幅が1から2メートル、長さ8メートルほどの細長く上が平らな岩

谷底にあった船石