中海に近い安来の街から冬の夕陽が沈むのを見ていると、山頂の尖った山に落ちていく。あの山はなんという山だろう。と調べてみると、京羅木山(きょうらぎさん)だった。出雲国風土記に、郡家の正東一十九里の所にある。とだけ書かれている高野山(たかのやま)と考えられている。地元では、安来市広瀬町にある戦国時代に活躍した尼子の居城、月山富田城を攻め落とした毛利元就が陣取った山として有名である。
江戸時代の松江藩の地誌『雲陽誌』には、境良来山(きょうらぎさん)と出ており、江戸期には「きょうらぎさん」と呼ばれていたようだが、この名の由来は、いろいろ調べても、どうもはっきりしない。日本民俗学の父と称される柳田國男が、その著書『地名の研究』の中で、今の東出雲や安来、広瀬の地域の地名に京羅木があることを引き合いに出して、「愚考をもってすれば、教良石、教良木はいろいろの漢字をもってその語音を表わすがすべて「清ら石」「清ら木」であろう。すなわち霊石または霊木のある地でその石その木を神明の依る所として祭祀を営んだ場所であろう。」と述べていた。
柳田國男がそう言うならば、京羅木山は古代の神名火山なのでは、と思ってしまう。しかし、これには後日談があり、彼の晩年の著書になる『海上の道』の「国語の成長期」という章の中で、あれは早合点をした失敗だったと振り返っている。
京羅木山は松江市の東出雲町と安来市の境にある標高473メートルの低山である。その山頂から北側を見下ろすと、近年城を覆い隠していた森林が取り払われて城の全容が顕になった月山富田城が、絵図でも見るように上から丸見えである。とても小さい人が歩き回るのも見える。尼子軍は見られていたのだ。
東に目をやると大山が美しい裾野を広げている。加えて大根島を浮かべた中海、松江の街の向こうに宍道湖も見える。尼子氏の月山での敗戦は、宍道湖、中海を毛利水軍に抑えられ、飯梨川を富田城に向けて登る兵糧が途絶したことだったという。
頂上に居ると、今日は山登りのトレーニングだという軽装の男性が上がってきた。その男性が教えてくれたのは、天気の状態が良ければ、まれに島根半島のすぐ向こうに隠岐島が蜃気楼のように大きく見えることがあるという。ならば隠岐を行き交う船も監視できただろうと思われた。
登山道は、麓の干し柿の産地になる「おちらと村」からである。途中には毛利氏が戦勝祈願のために建てたと伝わる出雲金刀比羅宮(いずもことひらぐう)がある。山頂からは、星上山へ向かって歩き、縦走路が下がった鞍部で星上山へは向かわずに右手に折れて下山すると「おちらと村」に帰ってくる周遊ルートがある。
先の出雲金刀比羅宮は、毛利元就が出雲大社のご分霊を祀ったと伝わるが、東出雲町誌にある金刀比羅宮の歴史を手がかりに読むと、元就が勧請したのは、実際は紀州熊野の十二所権現だったという。その12神の中のイザナギは、仏教の薬師如来を仮の姿として現すとされ、さらに薬師如来の教えを守り信仰する人々を守護する12の武神があって、その薬師如来十二神将の筆頭の仏様である宮毘羅(くびら)大将は、当時の武士からとても崇拝されていたという。
では四国の金比羅との関係はいつからかというと、江戸時代中期の元禄のころに、「今は讃岐にいるが本鎮座の場所は意東庄富士賀瀬なり」というような神託があって、今の地に金毘羅権現を勧請して祀ったという。以後江戸時代末期には、西は松江方面、東は伯耆方面までも信仰圏を広げ、北前船の隆盛があった頃でもあり、船舶の安全の祈祷と効験あらたかな「波剪(なみきり)の御幣」を求めて多くの船持ちや松江の豪商がこの地に足を運んだという。金毘羅権現のご開帳時には「万歳おどり」という芸能なども行って、四国の金刀比羅神社をしのぐ賑わいがあったという。現在のような大きな社殿を持つようになったのは、そのころと考えられている。
ところで四国の金毘羅大権現は、先の宮毘羅大将との説があり、香川の金比羅宮の開山由来は、修験道の始祖といわれる役行者が香川県象頭山(琴平山)に登った際に金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったことという。出雲金刀比羅宮とは、まったく不思議な関係なのである。
出雲金刀比羅宮も修験者が経営をして広まったと伝わるが、京羅木山の山頂の手前で山伏塚の説明看板がある。脇道へ外れて木の枝などに付けられたピンク色のテープを頼りに進むと、なんとか大岩に着いた。大岩の他に山伏が護摩壇に使ったという石積みの跡もあった。平安時代の修験道の修行場跡という。
この京羅木山の麓や東出雲内には、修験道の開祖と伝わる役行者(えんのぎょうじゃ)像や修験者の信仰の対象であった不動明王像、それを納めたお堂などがいくつもあるようだ。京羅木山は信仰の地、信仰のお山だったのではないか。まんざら柳田國男の説もはずれではないかもしれないと思ったりする。
出雲金刀比羅宮が現在はオオモノヌシを祀るのは、宮毘羅大将が「大黒さん」に仮の姿を現すといわれており、大黒さんはオオクニヌシに当たるのだが、それと同神とされ、四国の金比羅宮の主祭神でもあるオオモノヌシを祀っているようだ。
終わりに一つ、東出雲の特産品の干し柿は、毛利軍が兵糧の一つに干し柿を持参し、その種から柿が芽を出したものと伝わる。美味しい干し柿の出荷は十二月から一月である。(ライター 三代隆司)
参考文献
東出雲町誌 東出雲町町誌編纂委員会 1978 出版 東出雲町
雲陽誌 黒沢長尚 編 1976 発行 歴史図書社
柳田國男全集20巻(地名の研究)著者 柳田國男 1990 発行 筑摩書房
海上の道 著者 柳田國男 1978 発行 岩波書店
この 信仰の地となった風土記の山 に関してGoogleMapで検索できる緯度経度を以下に示します。
京羅木山山頂 35.387040, 133.164210
おちらと村 35.404609, 133.155848
出雲金刀比羅宮 35.399199, 133.161138
山伏塚 35.389382, 133.160945
京羅木山から星上山へとおちらと村への分岐点 35.384686, 133.155771