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出雲路幸神社、流転の歴史(下)

いずもじさいじんじゃ、るてんのれきし(げ) 

見る知る安来エリア平成時代

そして、江戸時代の初めごろの絵図では、富田川の川中に大きな中洲があって、そこに「松井」や「いつもさい」とある絵図や「道祖神」とだけ記された絵図があった。つまり洪水によって、川が移動し、神社が中洲に取り残されたのではないだろうか。集落名として丸で囲まれた松井が中州に書かれていることから、松井集落そのものも中州に取り残されていたと思える。


※この文章には(上)があります。

さらに、それらの地図の作成年より後になる寛文6(1666)年に富田川は大洪水を起こし、それまで西の山裾を流れていた流路が大きく東へ700メートルほど動いて現在の飯梨川の場所となったといわれている。その後の1830から1844年頃に描かれたとされる雲陽十郡絵図では、流路の変わった富田川の両岸に西松井と東松井があった。今の西松井は洪水によって松井が分断されて誕生したと思われる。
これらからすると、飯梨川(富田川)の洪水による氾濫までは、出雲路幸神社の旧社地は、西にある車山の麓を流れていた川の辺りにあって、その後、度重なる洪水で川の中の中洲に所在することもあったと思われる。そして川が流路を変えるほどの大洪水の後、現在の西松井村が誕生し「才ノ神社」や「いつもさい」、「道祖神」と書かれていた出雲路幸神社を、現在の元の場所に近いと考えられる墓地・潜塚のあたりに再建したのではないかと考えられる。そこから明治15年ごろ作成の飯梨絵図では、出雲路幸神社はすでに現在地へと移っていた。川の流れによっての度重なる移転、まさに流転していた。
それなのに、洪水という自然の脅威に翻弄されながらも西松井集落と出雲路幸神社は存続しつづけた、いったいどのような思いがそうさせたのだろうか。
西松井集落の先祖の集う墓地は、遺体を土葬で葬る場所としての「埋め墓」だという。普段拝む墓の「まつり墓」はお寺や自宅付近に設けるものだそうで、これを両墓制といい、2015年頃までは続いていたそうだ。しかし、今は火葬になり、「埋め墓」の隣りに墓碑を建て「まつり墓」にされる家もあるそうだ。また、潜塚は、安来の地名について書いたものを読むと字(あざ)名としては「ほぐつか」とあった。他にも出雲路幸神社の鎮守に杜には、おさん狐という美人に化ける狐がいて男たちをたぶらかす話もあったりして面白いところである。
(ライター 三代隆司)

参考資料
式内社調査報告 第20巻 式内社研究会 1983年 出版者 皇学館大学出版部
安来市誌 安来市誌編さん委員会 平成11年 発行 安来市
飯梨郷土誌 飯梨郷土誌編纂委員会 平成6年 発行 飯梨公民館
飯梨郷土誌別冊 飯梨郷土誌編纂委員会 平成6年 発行 飯梨公民館
島根県能義郡飯梨村誌 昭和11年 発行 飯梨村尋常高等小学校
能義郡神社明細帳(1) 昭和21年
安来・能義地名考 日本海新聞 平成2年4月12日版 日本海新聞社
安来の地名について 平成6年 編集・出版 安来市老人クラブ連合会
飯梨地区の古代山陰道 池橋達雄 1993年 出版者 池橋達雄
出雲国風土記の駅路 著者 池橋達雄・野津浩志 2004年
長見神社蔵弁慶願状 解読  島根県立図書館所蔵で中上健次氏の解読・寄贈
絵図関連
山陰の鎌倉 出雲広瀬 編纂 音羽 融 平成8年 発行 音羽浩武
明治15年ごろの飯梨村絵図 飯梨交流センターに掲示されていたもの
デジタル絵図について
島根大学附属図書館デジタルアーカイブ
https://da.lib.shimane-u.ac.jp/content/ja/
1633年の寛永出雲国絵図
1636年の出雲國古圖(狩野為信画)
1830〜1844年頃に描かれたとされる雲陽十郡絵図
以上

この 出雲路幸神社、流転の歴史 に関してGoogleMapで検索できる緯度経度を以下に示します。

出雲路幸神社       35.403309, 133.215639
西松井集落        35.403523, 133.211771
潜塚           35.405282, 133.210320

※この文章には(上)があります。




ドジョウの養殖池の向こうに杜が見える

出雲路幸神社の鎮座する鎮守の杜

地表に岩が現れている

弁慶の腰掛岩

絵図を分かりやすく描いた線図です

中央部分に才ノ神社、天神宮、松井 

土を盛っただけの小さな山に小さな自然石を乗せた墓がいくつか見える

現在の潜塚、奥に出雲路幸神社の杜