メニュー


難読漢字「飯島」は神様の間食だった

なんどくかんじ「はしま」はかみさまのかんしょくだった 

見る知る安来エリア平成時代

飯島と書いて「はしま」と読むなんて無理でしょう。と思うのだが、この地名が安来にあって、残存する1600年代以後の絵図にも、多くが漢字で飯嶋となっている。現在の飯島町(はしまちょう)は安来市の伯太川を挟んで安来町の西隣りの町で、国道が通り大型スーパーや家電、ホームセンターなどが集積する場所となっている。先の「はしま」の由来は、出雲国風土記に載る島、羽島にあるという。


現在の羽島はすでに陸上の小山となっていて、写真の左隣に見えるドジョウすくいのイラストの描かれた建造物は工業用水排水池というもので高さ18メートルだそうだが、山はそれとほぼ同じ高さだ。『出雲国風土記』には、入海(今の中海)に浮かぶ島として羽島とあって、椿やブナの木、地面にはワラビなどが生えているとある。近くを流れる伯太川には、鮎やウグイがいたようで、入海の魚として、イルカ、ボラ、スズキ、クロダイ、シラウオなどが上がっているが、他にも名付けられないほどたくさんいるとも書いている。これらの魚は今でも見ることができ、安来港ではアジ子釣りの姿も見られる。古代にも海や川の産物が豊かだったと思われる。
さて、羽島山と思っていた小山は、地元で聞くと権現山だそうだ。頂上に羽島神社があるというので、山に向かってまっすぐに伸びる参道の鳥居をくぐって進み、およそ100段ある階段を上がると羽島神社があった。境内は広々として、周りの木立のところどころの隙間から伯太川や中海の湖面が見えて、水辺の近いことが感じられた。
拝礼して本殿の方へ回り込むと、本殿は大社造ではなく、流造(ながれづくり)という平安時代に生まれた建築様式をしていた。図書館にあった神社の由緒書を見ると、神社の創建年は不詳であり、古書に飯島坐(はしまにます)神社、今は権現という。とあった。これは江戸時代の松江藩の地誌『雲陽誌』に飯島権現とあるので、それを指すのだろう。
続けて、里のいい伝えでは、神代にオオナモチノミコトとスクナヒコナノミコトの二神がこの島に来て、不時(ふじ)に飯を食したまうゆえに飯島(はしま)という。出雲風土記に羽島とあるのはこの島なり、現今この辺り総じて陸地(くがち)となりて、里名を飯島と称す。〜略〜中昔国守堀尾氏より社領寄進された由の古文書を今も保存す、この島古来より地震なしという。とあった。なんと、羽島だから飯島(はしま)と言うのでは無く、神話があったのだった。
決まった時間ではない時に食事を取ることを飯島(はしま)というのだと書かれているが、これを『雲陽誌』は「奇なり」としている。とはいえ、安来市は出雲市の平田町や斐川町と同様に、今でも出雲弁と呼ばれる出雲地方の方言が色濃く残るところである。実は、その出雲弁に「はしま」という言葉があるのだ。意味は間食、おやつ、手軽な食事なのである。まさか、方言「はしま」は、ここ羽島神社が起源なのかもしれない。
境内を後にして、階段を降りていくと途中に少し広い場所があって、そこの岩壁にある二つの窪みに、それぞれ石柱が立っている。よく見ると石柱は共に先端が三角形に尖っていて、仏教で見られるサンスクリット文字が彫られているのだ。調べてみると、二つとも安来市指定文化財となっていたので、安来市教育委員会文化課で資料をいただき、それをもとにさらに調べてみると、これは板碑(いたび)というもので、左側は全高106センチ、幅24センチ、厚さ15センチ。大きく彫られている4つの線形はサンスクリット文字で、仏教ではこれを種子(しゅじ)といい、1字で仏や菩薩を表すのに用いるもの。一番上が金剛界大日如来と下の三つの字が阿弥陀三尊を表していた。
右側は全高90センチ、幅26センチ、厚さは頭部が15センチ、下部が7センチ。文字が風化で薄くなっているが、中央上の胎蔵界大日如来の種子の下に「南无(無)大日如来法阿弥禅門」、向かって右に「應(応)永二年」、左に「二月日逆修」と刻まれており、これは、室町時代の応永二年二月に大日如来を信仰する法阿が、死後に行うところの法要を、自己の生存中に営みこの板碑を造立した。と読めるようだ。
密教や修験道では、金剛界と胎蔵界はそれぞれ大日如来の理と慈悲・真理の側面を表しており、二つが対になって大日如来の世界を象徴するものであるため、この板碑は同じ時に作られたものと考えられている。また、死後の法要を生前に行うというのは、修験道が盛んな紀伊山地にある吉野の大峯山などで、登拝三十三回の修行をした時、それを記念して供養塔を建立するのだが、これが逆修と呼ばれ、これを行なった修行者は死後山に帰ってすぐさまカミとなるとされていることから、生きている内に法要をするという。修験道には海辺を歩き駆ける修行や島渡りという修行があったことが知られて来ているが、室町時代に陸地となっていたとしても中海の海辺であったと思われる羽島は、『出雲国風土記』にも載る由緒ある場所として、修行が行われていたと想像される。いい伝えでは、中腹に真言密教の本尊である大日如来を祀る神宮寺もあったというからなおさらである。安来市内には、先の板碑よりさらに古い南北朝時代と考えられるものが、密教寺院である天台宗の清水寺と曹洞宗の中仙寺にあるそうだ。
また、安来には飯の字を持つ地名が他にもあって飯梨川、飯梨町、飯生町である。この飯生町の能義小学校の北側の古代山陰道と推測された道沿いに、「夜中の森」と彫られた小さな自然石が30年ほど前まではあったという。その夜中の森には、オオクニヌシが指揮をしてこの地を開墾した時に御厨をおき、飯を作ったので飯の森ともいう。とのいい伝えがあった。近くの意多伎神社にも、神の食事の神話が残っている。(詳しくは、当いずもる「炊きたてで占い神事」参照 )   (ライター 三代隆司)


参考資料
平成26年度 図書館歴史講座「安来の石像物について」の配布資料 安来図書館
羽島神社遷宮記念誌 編纂発行 羽島神社遷宮委員会 1993年
日本海新聞 安来歴史散歩23・24  日本海新聞社 1983年
権現山板碑資料 安来市教育委員会文化課
板碑の総合研究 総論 編者 坂詰秀一 柏書房 1984年

この 難読漢字「飯島」は神様の間食だった に関してGoogleMapで検索できる緯度経度を以下に示します。

羽島神社 35.435096, 133.238227




広い田んぼの中にある小山

昔の羽島は今、権現山

赤い椿の花のむこうに流造の屋根がみえる

羽島神社の本殿

頭が三角の形をした石柱に見える

二つの板碑の一つ

なにかひらがなを筆で書いたようにも見える彫った文字

板碑のサンスクリット文字