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神様の乗って来た船子山はどこに

かみさまののってきたふなこやまはどこに 

見る知る出雲エリア平成時代

鳥居を立てるなら出雲大社より大きな鳥居でなくてはならない。という理由で、境内に鳥居がない神社があるという。そう聞いて、一番に思い浮かぶのは出雲大社の一の鳥居とされる高さ23メートルの大鳥居である。確かに、あれより大きな鳥居となると、ちょっと建てられないかも。でもまてよ、よく考えてみればあの大鳥居は大正時代に寄進されたものだが。などと思いながら、その神社に足を運んだ。


場所は、出雲市斐川町神氷(かんぴ)にある加毛利(かもり)神社である。南側にある山裾が住宅街に迫る杜の中にあった。参道の横に駐車して車を降りると、参道が奥の神社にむけて真っ直ぐに伸びていて、遠くに見える拝殿の扉が開いて灯がついているのが小さく見えた。
すぐ近くに手水舎や加毛利神社略記を掲げた解説板があって、主祭神は天津日高彦火火出見命(あまつひだかひこほほでみのみこと)とある。また、その妻神であるトヨタマヒメと御子神であるウガヤフキアエズノミコトも合わせて祀られているという、そこに、鳥居のないお宮と題して、「御祭神が天津神であり、国津神の大国主命を祭る出雲大社より大きい鳥居でなくてはならない、ということから建てられていない。従って氏子家も門を造らないという。」とある。
祭神の天津日高彦火火出見命はアマテラスの孫で、アマテラスの命を受けてオオクニヌシより譲られた地上世界を治める為に天下ったニニギノミコトが、その地上で結ばれたコノハナサクヤヒメとの間にできた御子なのである。別名は山幸彦。コノハナサクヤヒメは地上の山の神であり国津神であるオオヤマツミの娘である。
略記を掲げた解説板には、他にも神社名および地名の由来と題して、トヨタマヒメがウガヤフキアエズノミコトを産んだ時に、周りに多くのカニが集まったため、そばに仕えていた神がカニを掃いてミコトをお守りした。ミコトは大変お喜びになり、その神に「蟹守」の名を与えられた。後にカニモリ→カモリ(掃部)→カモリ(加毛利)→神守、と変わり今日に至っている。とある。また、そのカニモリ(蟹守)の子孫神が、先の三柱神の御分霊を奉り、日向の宮崎神宮から船で当地の船子山に着き、宮崎大明神として、お祭りしたのが始まりである。とあった。
地域の方の喜寿の祝いのご祈祷が終わったばかりの宮司に尋ねると、神守とは、明治8年に氷室(ひむろ)村と合併して神氷村となった神守村のことで、今も当社あたりの通称地名として残っている。とのこと。さらに当社の前の家の屋号は宮崎だそうだ。
蟹守の伝説は807年に書かれた『古語拾遺』に載っているもの。733年に編纂の『出雲国風土記』には加毛利社とあり、『延喜式神名帳』(927年)では加毛利神社。江戸時代の松江藩の地誌『雲陽誌』(1717年)には宮崎明神とある。江戸時代かその前に神社の謂れとして作られた中世神話のようなものなのかもしれない。
『雲陽誌』にある祭神は、今の配祀神(はいししん)であるウガヤフキアエズノミコトだけが記載されている。そしてこの宮崎明神より西二町(約200メートル)ばかりのところに舩山があって、社家の人々はこの神の御舟山と呼び、土地の人は船子山と呼んだともある。この意味は、ウガヤフキアエズノミコトが船に乗って来て、その船が小山になったのを御舟山と呼んだ。ということなのだろう。山が神様にまつわる船に例えられるのは、他にも『出雲国風土記』に船岡山の例がある。(当いずもるの「山中に海、船の文字」参照)
参道を進むと鳥居の代わりなのか結界を示す注連縄が張ってあった。境内はしきりに鳥の声がして気持ちが良い。宮司によると、神社は30年ほど前に遷宮があって、それまでの流造(ながれづくり)だった本殿を大社造にしたそうで、御神体は出雲大社同様に西を向いているそうだ。今年2026年が前の遷宮から30年目となり、再び遷宮の年となっており、氏子の皆さんが樹林を含めた境内の整備を行う準備をされているそうだ。本殿の南側の杜にはスダジイの巨木が何本か繁っていて、斐川の『巨木・名木巡り〜ふるさと探訪シリーズ〜」にも取り上げられている。
そうした貴重な樹林のある当社のある小山に名前があるかどうかを聞いたが、宮司いわく名は無いそうである。当社は新川開削の時に今の社地に移転したと伝わり、宮司もそう話されていた。しかし、『雲陽誌』には、御舟山とも船子山とも呼ばれる小山は社から西へ200メートルほどのところにあったと書いてある。つまり船子山は今の住宅街の中にあったということなのだ。さらに『雲陽誌』には神照寺という寺も記載されていて、禅宗船子山と号す。とある。この神照寺の開山は江戸時代初期という。そして、『出西ふるさと読本』には、天保2年(1831)の新川造成の時に、300メートルほど南へ移転したとある。その後、神照寺は寺号が変わって現在の仁照寺がそれになる。このことからすると船子山の位置は、仁照寺の北側約300メートル、そして現在の加毛利神社から西へ約200メートルのあたりの、今では住宅街になっている辺りにあったのではないかと推測できるがどうだろうか。現在の仁照寺は、加毛利神社から南南西へ約200メートルに所在する。
ウガヤフキアエズノミコトの神様が乗って来た船と伝わる船子山だから山号を船子山とし、寺号は神様に因む神照寺としたのではないのだろうか。船子山の近くには船の碇(いかり)とされる碇山もあったという。無くなってしまった神話にまつわる二つの山は、どんな姿をしていたのだろう。(ライター 三代隆司) 


※新川
オロチ神話で知られる斐伊川の氾濫を防ぎ、また新田を作るため天保2年(1831)に幅約200メートル、総延長約10キロメートルにもなる運河のような新川が造られた。100年後の昭和14年(1936)には、新川は天井川になって砂で埋まり、今では、そこが住宅街となっている。


参考資料
斐川の地名散歩 池田敏雄 発行 斐川町役場 1987年
出西ふるさと読本 編集・発行 出西ふるさと読本編集委員会 2023年
式内社調査報告 第20巻 編集 式内社研究会 発行 皇學館大學出版部 1983年
雲陽誌 編者 黒沢長尚 発行 歴史図書社 1976年

この 神様の乗って来た船子山はどこに に関してGoogleMapで検索できる緯度経度を以下に示します。

加毛利神社 35.376016, 132.813704




現在の鎮守の森も船のような形にみえる

加毛利神社の杜

神社へ向かってまっすぐの階段がのびている

鳥居の無い参道

木製の板にかかれた黒い筆文字の蟹守の文字がある

蟹守の伝承を伝える略記

樹林の中からスダジイの大木越しに本殿がみえる

樹林に囲まれた本殿