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宍道湖の水底に眠る釜代

しんじこのみなそこにねむるかましろ 

見る知る松江エリア平成時代

宍道湖の水底(みなそこ)に大きな釜のような地形があって、それは『古事記』の国譲り神話で、オオクニヌシをはじめとする国津神とタケミカヅチなどの天津神との饗宴があった時、その調理をしたクシヤタマノミコトがつかっていた釜だという。そこでその釜を探し始めたのだが、なかなか見つからなかった。やっとわかったのは、釜の場所は釜代沖という松江市西浜佐陀町の喫茶店とラーメン屋の並ぶ宍道湖の沖合いだった。


しかし、そこへ行って宍道湖を眺めても、湖底の地形のことだから、一向どこだかわからなかった。ただその岸辺は釜代と呼ばれ、その南の湖上を釜代沖といい。釜代沖と言うと地元の方が教えてくれたのは、そこにある浅瀬で起きた江戸時代の難破事故ことだった。
その事故は、宝永六年(1709)に出雲方面から出港した68人が乗った船が座礁、難破して41人が死亡したもの。そのうち身元の分からない、津和野から松江を経由して伊勢参りする予定だった津和野出身の23人が無縁仏として、「大はかや」という松江で有名なうなぎ店の駐車場の一角に大きな円柱形の墓石、宍道湖釜代沖難破慰霊碑が立っていた。それを祀ったのは墓のある寺津地域の方々で、「大はかや」はこのお墓の墓守をされていたという。
また、その浅瀬ではその後も座礁・難破があったと記録にあるようなので、その危険を知らせる航路標識の代わりだったのか、江戸時代末期に法華塔と一字一石塔が建てられたという。現在は、それが崩れて湖が静かなときに湖面に顔を出すという。再度、釜代岸に行ってみると風もなく湖面が静かな日だったので、その崩れた残骸の上に数羽の鵜がとまっていて、あれだ!わかった。そこは岸から50メートルほど沖で、湖が波だったり水位が上がったりすると見えなくなりそうだった。
享保2年(1717年)に完成した松江藩の地誌『雲陽誌』には、「七釜大明神 風土記出嶋社と云は是なり、(略)古老傅に南湖二三町沖を俗に釜代沖と云り、水底に釜の形のごとくなる磐有、神代に朝の御気夕の御気調えし釜なりと云、船中不浄の人ありて此釜磐の上をすぐれば船かならず覆と云り」(雲陽誌)とある。つまり、岸から200〜300メートル沖であるので、どうも船の難破場所とは違うかもしれないと思いはじめた。
釜代沖の湖底にある釜で料理をしたと伝わるクシヤタマノミコトは、出雲国風土記に載る出島(でじま)神社の祭神の一柱である。出島神社は、釜代沖のあるところから宍道湖岸を東に2キロメートルほどのところにある満願寺の南隣りの岸辺にあった。鳥居は無く境内には江戸時代に寄進された灯籠やそれの再建などもあって、地域で大切されていることが感じられた。
ここに鳥居がないのは、地元では戦前まで松江市美保関と同様に、コトシロヌシの伝説に由来する鶏の卵を食べない習慣があり、代わりに家鴨の卵を食べていたそうだ。鳥居は鶏栖とも書くことから、鳥居を建てなかったのだそうだ。
出島神社について地域の古江村誌には「古曽志の南海邊に山あり釜代山と云古は海中へ百間斗出て古木多し七釜代明神とて二社ありしが是山次第に波に崩れて一社を浜佐田村に遷し今の釜代社是也一社當村の白鬚社に相殿に祭る寛永中白鬚社造立のとき材木を釜代山より切出したりと云傳れば大木も多かりと見えたり。」とあって、文中の白鬚社は出島神社の近くの許曽志神社の旧社名である。これによると、出島神社のあったのは釜代山という山だったようで、そこに七釜代明神という社が、なぜか二社があって、社地のある釜代山が宍道湖の波浪で崩れたために、一社は白鬚社(今の許曽志神社)に合祀され、もう一社は当時の浜佐田村に遷されており、これが満願寺の隣りの出島神社と思われる。これらのことから想像すると、現在の喫茶店とラーメン屋のある釜代の場所から南に小さな湾になったようなところがあり、そこに昔は釜代山があって、それが波浪で崩れて無くなったように思える。しかし、難破事故の浅瀬は岸に近すぎるのではないかという疑問は晴れないでいた。
釜代の岸辺の黄白色の崖を見ていたら、ここは、そんな黄白色の崖が16ヶ所も並んでいる「十六禿げ」と呼ばれる風光明媚な場所の西の端にあたる。そこで当地の島根半島・宍道湖中海ジオパークのジオサイトになっていたことを思い出した。途端に湖底地形がわかるかもしれないと思い、松江市ジオパーク推進室の関係者に聞いたら、国土地理院の電子国土WEB地図を教えてくれた。
さっそく釜代沖を電子国土WEB地図で見ると、湖底には釜代から半島のような形の浅瀬が300メートルほど南へ伸びていて、その半島先端の西側に丸い深みがある。これが釜の形の磐だろう!とわかった気がした。岸からの距離は200〜300メートルぐらいある。岸にもっと近い場所に2つの浅瀬がみえるが、これが難破事故の場所であろう。
さらに、地形を眺めていると、出島神社は出雲国風土記に出嶋社とあったので、風土記の時代は、今は湖底となっている半島部分が湖面上に出ていて陸だったのではないか、その上に出嶋社があったら・・・社名にふさわしい姿に思えるのだが。釜代とは、依代と同様に釜に神がより付く場所を意味するのではないだろうか。    (ライター 三代隆司)

この 湖底に眠る釜代 に関してGoogle Mapで検索できる緯度経度を以下に示します。

出島神社        35.472678, 133.016833
釜代山付近       35.474220, 132.994950
宍道湖釜代沖難破慰霊碑 35.476056, 133.004439

参考資料
『古江村誌』 編集者 須藤吉郎 八束郡古江村立古江中学校 1949年
『松江史跡探訪』 編纂 日本銀行松江支店         1994年
『出島神社(七釜代大明神)由緒』 編集 井原 皓 発行 出島神社 1998年
『ふるさと古江のむかしばなし』 松江市古江公民館     1998年
『地名が語るふるさと古江』 松江市古江公民館       2010年
釜代沖の湖底地形 国土地理院の電子国土WEB地図 http://bit.ly/4xVzjk6




宍道湖のしじみ漁のための小さな港で左手に崖になった岸がある

釜代山の崩れたと思われる場所

石段を30段ほど上がると境内につく

出島神社の参道

浅瀬にある倒れた石塔が湖面に顔を出し、そこに鵜が休んでいる

遭難事故のあった浅瀬

釜代の岸から鍵の手のようにのびた湖底地形がわかる

釜代沖の湖底地図(地理院の電子国土WEB