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くぐい(白鳥)の飛来と神話

くぐいのひらいとしんわ 

見る知る出雲エリア平成時代

出雲地方に飛来する冬の使者、白鳥にまつわる神社について、以前この「いずもる」で「白鳥の集った大岩の上に建つ神社」を紹介したが、その鳥屋神社から真南へ直線で2.5キロメートルの場所に鵠(くぐい)神社がある。鵠とは白鳥のこと。この鵠神社には、古事記や日本書紀に語られる天皇の御子をめぐる物語があった。白鳥が飛び越えたので鳥越川と呼ばれた川が古代には鳥屋神社の大岩まで流れていたという。


鵠神社を探すと、それは今、求院(ぐい)八幡宮の境内社となっていることがわかり、出雲市斐川町求院地区に向かった。これまで取材した斐川町の神社は、総じてどこも鎮守の杜があったが、ここもそれに違わず田んぼに囲まれた青々として森の中にあった。JR山陰本線のすぐ近くで、列車の通過する時には杜の後ろの方から鉄路の音が響いて来た。
広い境内の拝殿に向かって右側に、高さ3メートル足らずの小さな社があって、それに似合わないほど大きな扁額がかかっていて、筆で鵠神社と書かれ、加えて「くぐいじんじゃ」と小さく仮名文字が書き加えてあった。
日本書紀には、『11代の垂仁(すいにん)天皇の時、皇子のホムツワケノミコトが30歳になって髭もずいぶんと伸びたのに、泣いてばかりいるのはなぜか、天皇は担当の役人に考えるよう願いました。それから約1ヶ月後、天皇が皇子と宮殿にいると、大空を鵠が飛んで行くのを見た皇子が「あれはなんだ?」と声を上げました。
それを喜んだ天皇が、「だれかあの鳥を捕らえて献上せよ」と命令すると、天湯河板挙(あめのゆかわたな)が鳥を捉えることを誓って、鵠の行方を見定めて出雲国まで追いかけて捕らえ天皇に献上しました。それによって皇子はその鵠を相手に遊び、ついに話すことができるようになったことから、天皇は天湯河板挙に鳥取部の姓を与えられた。』
という物語があり、そこに出雲での鵠捕獲の詳細な話はありませんが、求院地区の古くからの言い伝えでは、鵠をとらえた場所は、古代にこの地にあった大きな池のほとりであって、その池を「くぐい池」、この地域一帯を「くぐい村」と呼ぶようになり、それが後にグイ、求院(ぐい)という地名になったという。
大和からはるばる飛んできた鵠が、追っ手から必死に逃げて飛び越えた川が鳥越川で、求院地区の中ほどを西南から北へ流れているというので、探してみたが見つからなかった。後にわかったことは、平成の中頃の圃場整備事業で市道が拡幅されて、今その姿は無いのだった。その直前までは、用水路として179ヘクタールの田畑を潤す長さ約10キロメートルの川だったとのことで、当時の写真を見ると幅は90センチぐらいあったようだ。子どもたちがウナギやフナを取ったり、魚を覗き込んだのか川に落ちる子どもやタクシーを降りた酔客が落ちたりした話が聞かれたという。
このホムツワケの物語は、古事記にもいくぶん話の展開がことなるが伝えられている。それは、捕えられた白鳥を見ても皇子は話せるようにはならず、心配していた天皇の夢枕に「我が宮を天皇の御殿のように建てたら、皇子がものをいうようにしよう」と聞こえ、そこで占ってみると、その言葉は出雲の大神の御心だった。そこで、皇子に二人の伴を付けて出雲大社に参拝させたのだった。
その参拝を終えた帰途に、出雲国造の祖先にあたるキヒサツミが、皇子を見送る宴を催した。それには、肥河(現在の斐伊川)の川中に、黒木の橋をかけて仮宮を作り、その川下に青葉の山を飾り立てた。それを見た皇子が、その青葉の山は山かと見れば山ではなく、あれは出雲岩〓の曽(いわくまのそ)の宮においでるオオクニヌシの大神を祀る神職の斎場ではないかと言葉を発した。これを聞いてお伴の者たちは大いに喜び、皇子はしばらく長穂宮(ながほのみや)に泊まって、すぐさまこのことを天皇へ知らせた。
というような物語である。この古事記の内容でも、出雲との関連が深く、岩〓の曽の宮は出雲大社という説があるが、鵠神社から南西へ2キロメートルほどのところにあるキヒサツミを祀る曽枳能夜神社(そきのやじんじゃ)だと地元ではいい伝えられ、斐伊川の仮殿があったのは、鵠神社の南東のすぐ近くに昔あった小山の鳥越の森であり、飯を差し上げたのが出雲に多い名前の飯塚(いいつか)の祖先、銚子を持ってお酒の酌をしたのが長子の祖先であったと言われている。また、青葉の山は隣りの富地区だという説もあるという。話は続くのだが、詳しくは『郷土斐川物語』(岡重義著)をご覧いただきたい。
求院八幡宮の境内には、鵠神社の他にも浮島神社や宝殿社や石宝社など興味深い境内社があり、さらに鎮守の森の中には子どもたちのための遊具も置かれていた。10月の第3日曜日にある秋の祭りには、1歳前後の氏子の子供の生育・健康安全を祈る「子祷(こどう)祭典」あり、地域の子どもたちにも縁の深い神社である。また、その時には江戸時代から続く「投げ獅子舞」が奉納され、舞手4名による動きの激しい躍動感あふれる獅子舞とのことである。 (ライター 三代隆司)

※〓は、土へんに「冂」の中に「口」。

この くぐい(白鳥)の飛来と神話 に関してGoogle Mapで検索できる緯度経度を以下に示します。

鵠神社(求院八幡宮) 35.370597, 132.795953
曽枳能夜神社     35.366482, 132.817657
鳥屋神社       35.393083, 132.793366


参考資料
『郷土斐川物語』  著者 岡 重義 発行 斐川町教育委員会 1976年
『斐川の地名散歩』 著者 池田敏雄 発行 斐川町役場    1987年
『語り部たちが伝える出西今昔物語II』 発行 出西コミュニティセンター 2021年
『出西ふるさと読本』 発行 出西コミュニティセンター 2023年




社地はまわりに田んぼがあって、こじんまりとした森の中

求院八幡宮の社叢

境内にある高さ3メートルぐらいのやしろ

鵠神社

本殿のうしろに鎮守の森のある広々とした境内

求院八幡宮の境内

本殿は出雲地方でよく見られる大社づくりではなく、ながれづくりである

本殿と手前右は浮島神社