薦枕志都治値(コモマクラシツヂチ)という神が出雲国風土記に登場する。コモマクラとは真薦(まこも)で織ったむしろを巻いて作った枕で、シツは沼や川、ヂは土地、チは神の御魂を表すという。なんとも変わった名前の神様である。真薦と神様といえば、出雲大社の真菰(まこも)神事が知られる。毎年6月1日に出雲大社と社家通りにある「出雲の森」で行われる祭りで、凉殿(すずみどの)祭とも呼ばれる。
その神事では「出雲の森」から、出雲大社境内にある御手洗井(みたらしのい)までの道中に白い海砂を敷き、その上におかれた青々とした真薦の上を宮司が静かに進む。宮司が踏んだ真薦は無病息災や魔除けのご利益があるとされ、参拝者は競って拾い上げ、持ち帰って神棚にお供えしたり、浴槽に入れたりする。
真薦は、川や沼などの水辺に群生し、高さは2メートルほどにも成長するイネ科の多年草で、出雲大社の本殿などのしめ縄にも使われている。大分県にある日本の八幡宮総本社として名高い宇佐神宮の御神体は真薦の御枕だという。
この神聖かつご利益のありそうなコモマクラシツヂチの神は、出雲国風土記に出雲郡■治(しつぢ)郷の中に坐していたとある。■は漆の異体字で、七の漢数字の代わりに書かれていた文字でもある。この■治が今も小字(こあざ)地名の漆治(しつぢ)として残っているが、地元の人は漆治を「つつじ」と発音するという。場所は出雲市斐川町にある下直江字漆治、JR直江駅から北西へ直線で約2キロメートルのあたりだ。
行ってみると、そこには、風土記の出雲郡に載る二つの都牟自(つむじ)神社の一つがあった。田んぼに囲まれた小ぢんまりとした神社で、本殿は大社造であるがこれも小さなものであった。拝殿に掲げられた扁額には都牟自神社とあった。祭神は天津枳値可美高日子(アマツキチカミタカヒコ)命であるが、これは、コモマクラシツヂチの神の別名として風土記に書かれている。
もう一つの都牟自神社は、そこから700メートルほど西の斐川町福富地区にあった。こちらは入り口に都牟自神社と大きく彫り込まれた石柱が立っていた。境内はとても広く、境内社や荒神さんがいくつもあった。奥に行くと拝殿の横に、別の鳥居のある入り口もあり、それぞれに狛犬がおかれ、数えてみると7組もあった。
石碑に彫られた由緒略記によると戦国期に出雲を支配した尼子氏が月山富田八幡宮を、ここに勧請した八幡宮であったようだ。その頃に都牟自神社は八幡宮に合祀されたのではないかと思われるが、明治になって都牟自神社の社名を使うようになったようだ。拝殿に扁額は無く、本殿は流れ作りのとても大きなものである。
この二つの同名の神社の背後に見える出雲北山の山並みの東の端は旅伏山(たぶしさん)と呼ばれ、山頂の近くに、都武自(つむじ)神社がある。祭神は速都武自和気命(はやつむじわけのみこと)といい、ツムジは竜巻のことといわれる。
はてさて、相互に見える範囲に同名の3つの神社があるとはなぜなのだろう。鍵は、コモマクラシツヂチ(アマツキチカミタカヒコ)の神について、出雲国風土記には「この神、郷の中に坐す。」と書かれていること。郷の中に坐すというのは、神社は山や岩、滝、川などの神を祀っているので、自然の中にあるのが普通であるが、わざわざ、人々の暮らす郷の中に坐すとしたようだ。
この書き方は、他に伊努(いの)郷、美談(みたみ)郷の2ヶ所にもあって、その伊努郷は現在の出雲市東林木町周辺、美談郷は出雲市美談町周辺であり、この2つの地域は隣り合っている。その境界に近い東林木の山裾が平地になるあたりで、小型ではあるが四隅突出型墳丘墓も発掘された青木遺跡がある。そこからは、神社の柱の跡と考えられる遺跡が発掘されている。この土地の開拓に水路等の土木技術を持った人々が多方面から集まっており、この神社は、そうした人々が共通の神を祀ることで団結の気運醸成を図ったのではないかと考えられている。
つまり、旧来の自然の中にある神を祀るのではなく、人々が新しく造成した土地に新たな神社を造り、新たな神を招いて祀ったのではないかというのである。
そうしたことから類推すれば、この■治郷の二つの都牟自神社も同じなのではないのか。地質の研究では、宍道湖の奈良時代の湖岸は、ちょうど二つの都牟自神社のあたりを南北に走っていたようである。それは、現在の直江の町と旅伏山の東の麓を結ぶ県道275号あたりといわれ、その途中の東西に先の二つの都牟自神社が鎮座している。つまりそのあたりで湿地の干拓を行い、稲を作るための新しい土地を造成していたのではないか。そのため、土手や水路を造るための土木技術に長じた人々が集まっていたのではないだろうか。
さらに想像力を逞しくすれば、先の東林木や美談の背後の山には旅伏山があり、そこの山頂には風の神を祀る都武自神社が鎮座していた。新しく造った神社から見える山の山頂付近にある神社と同名の神社として、祭神は干拓した土地、湖水や水、新たな土地にふさわしいコモマクラシツヂチを命名したのではないのだろうか。
出雲国風土記の神門郡古志郷には、古志の国から堤を造る人々が来た、とあるから、そうした土木工事に長じた集団がいたものと思われる。たびたび氾濫する斐伊川とそれが運んでくる大量の土砂は、宍道湖を埋め立てて新たな土地を作り上げるための貴重な資源だったことだろう。 (ライター 三代隆司)
※■は、上半分の左がさんずいに「七」、下半分が「木」。
この コモマクラシツヂチの神 に関してGoogle Mapで検索できる緯度経度を以下に示します。
直江の都牟自神社 35.398225, 132.817616
福富の都牟自神社 35.403314, 132.821980
旅伏山の都武自神社 35.421657, 132.784772
青木遺跡 35.405405, 132.787713
参考資料
『斐川の地名散歩』 著者 池田敏雄 発行 斐川町役場 1987年
『直江のおもかげ』 著者 持田享一 発行 直江公民館内直江歴史の会 2002年
『ふるさと久木』 編集 久木郷土誌編集委員会 発行 久木コミュニティセンター 2018年
『出雲国風土記註論』 著者 関和彦 発行 明石書店 2006年
『出雲国風土記―校訂・注釈編―』 編者 島根県古代文化センター 発行 八木書店 2023年